2010年08月30日

上田秋成さんの「戒名」?

旧暦七月二十一日 壬子(みずのえね)

 博物館に行くのは、金曜日の夕方にかぎる。

 京都国立博物館では、特別展の開催中、金曜日だけ夜8時まで開館時間を延長している。この夜間の展観を始めてから、もう何年も経つはずだけれど、意外と知られていないのか、かなり混雑する展覧会でも、この時間になると、少し人が減る。

 時間帯そのものの効果かもしれない。観光のお客さんであれば、夜には食事や繁華街を楽しもうとするだろうし、地元京都の人でも、なかなか夜に出かけて行って観覧しようとは思わないのかもしれない。そのあたりは、近所民ならではの利点ですね。

 没後200年記念の『上田秋成』展。上田秋成さんには、それほど興味がなかったけれど、一年間有効の「京都国立博物館友の会」の会員証が8月末で切れるのに、この間、『シルクロードの文字を辿って』だけしか見られなかったので、先週の金曜日、しゃくだから見に行った。(笑)

 特別展の場合、本館(旧館?)の全室を使って展示されることが多いけれど、展示可能な秋成さんの遺品が少なかったのか、半分で終わり、中央の部屋には「研究成果」として青銅鏡に関する展示があり、残り半分の部屋では「新収品展」をやっていた。こちらも、それなりに面白かった。

 上田秋成といえば『雨月物語』。小学生くらいの頃だったか、子ども向けにやさしく書かれた本で読んだ記憶がある。いくつかのストーリーは、まったく覚えていなくて、その中のどれかに、たいへんな体験をした人物が、その夜「緑青色の小便をした」という描写があった、それだけがなぜか印象に残っている。たしか「緑青色」というのがまだわからなくて、オフクロかオヤジに訊いたのではなかったかなあ。
 怪談、なんていわれることがあるようだが、怪談というより、やはり「奇譚」というほうが、しっくりくる感じではないだろうか。

 秋成さんは、大阪(大坂)で生まれ育って、年をとってから京都に住んだらしい。
 俳人でもあって、俳号のひとつに「無腸」という号があった。
 無腸というのは、「蟹」という意味なのだそうだ。
 お墓が、京都の南禅寺近く、西福寺というところにあるらしいが、その 墓石の台座にあたる部分が、なんとカニのかたちをしている。本人の遺志か、仲間の配慮なのか、いや、みんなユニークだったのですね。

 秋成さんは、いくつもの雅号を持っていたが、墓石になるくらいだから、これが代表的というか、お気に入りだったのでしょう。諡(おくりな)も「三余無腸居士」で、やっぱりカニさんなのである。

 「三余」というのは、三つの「余った」あるいは「余らせることができるはずの」時間のことらしい。

「読書に最も適した三つの時期または時。冬(年の余)・夜(日の余)・陰雨(時の余)。」(『国語大辞典』小学館)

「学問をするひまがないという者に対して三国時代、魏(ギ)の董遇(トウグウ)が教えた、三つの余った時間。冬は年の余り、夜は日の余り、陰雨は時の余り。」(『大漢語林』大修館書店)

 で、カニさんのことを「無腸」とか「無腸公子」というらしいが、「無腸」という言葉には、節操がない、とか、腹がすわってない、といった意味がある。
 カニさん由来で、そういう意味がついたのでしょうか。そういえば、カニさんに腸のようなかたちのものはみあたらないので、無腸、というのは、なるほどわからなくはない。でもなんで、そんなに「節操がない」なんてののしられるのでしょう。横に歩くから? おそらく、どこか、中国の説話あたりに由来となる話がちゃんとあるのでしょうね。

 秋成さんの諡は、学問をすることのできる三つの時間に、無節操と思われるくらい、いろいろなことをしてきた、といったような意味なのでしょうか。つまり好奇心旺盛で多芸多才、マルチタレントだったね、みたいな……。

 本人が、無腸という号を好んだとすれば、みずから「わたしは節操がない人間ですよ」と、わざわざ卑下して言うぶん、じつは節操ということをたいへん重んじていたことの裏返しではないかという気がする。義理堅い人だったのではないだろうか。

 戒名(かいみょう)は本来、生前につけたものらしい。受戒して仏教徒となった時にもらう名前で、宗派によっては法名とか法号などと呼ぶ。諡号(しごう)は、亡くなってから生前の功績を称えて贈られるものだけれど、秋成センセイの諡には、居士とついているので、俗人にとっては戒名と同じようにみえる。
 いずれにしても、今は、亡くなったときに居士だとか信士だとか院だとか、支払う値段によって、信仰も学も何もない坊さんからつけられる、適当な戒名なんかより、こういった、含蓄とユーモアのある諡(贈り名)のほうが、はるかに本人の遺徳も偲ぶことができるし、送った人々の記憶にも残る。

 秋成さんは、片目ずつ見えなくなって、一度完全に失明している。
 ところが、針灸治療か何かで、一方の眼はふたたび見えるようになったらしい。その医者を「神医」と呼んで、以後、たいへん尊重しているのがわかる。
 どんな病気で、どうやって回復したのだろう。見えなくなった眼が、しかも、あの時代に、ふたたび見えるようになったというのは、すごいことではないのだろうか。そりゃもう、神の医者と呼びたくなりますよね。

 時代は二百年前。わずか二百年前、なのかもしれない。
 だけど、二百年のタイムスリップはやっぱり隔世の感がある。
 『雨月物語』を普及させた和本は、すでに文化財であり、今ではオフセット印刷された洋装本で読む。
 二百年先、どころか、二十年先には、もう、ほとんどの人が電子書籍で読んでいるだろう。二百年先には、今、手にしている「本」そのものが、展覧会に並んでいた和本のように、よほど特殊な用途以外、過去の文化財となっていることは間違いない。

 それにしても、やっぱり、時間さえあれば、いろいろな世界は見るべきだと再認識。
 上田秋成さんという、あまり関心を持っていなかった先達の生涯も、少し身近に感じていろいろな関心とあらたな疑問で、少しばかりくすぐられたのでした。
   
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2010年08月26日

脳死になりそうな暑さの中で。

旧暦七月十七日 戊申(つちのえさる)

 週明けの月曜日、23日が「処暑(しょしょ)」だった。
 テレビのニュース番組も、今年は、この格別の「残暑」を表現するのに、どこの天気予報でも「処暑だというのに…」と言っていた。
 二十四節気をピックアップするのは、いいことです。(笑)

 処暑の前は「立秋」だったし、次にくるのは「白露(はくろ)」である。
 当然、処暑は、季語としては秋。
 季節はもう、深まりゆく秋、なのだ。
 おなじみ『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)では、「処暑」をこんなふうに説明している。

 旧暦七月、申の月の中気で、新暦八月二十三日頃である。(略)
 暑さが止むの意味から処暑という。涼風が吹きわたる初秋の頃で、暑さもようやくおさまり、綿の花が開き、穀物が実り始め、収穫の候も目前となる。昔から、この頃は二百十日と並び台風襲来の特異日とされており、暴風雨に見舞われることが少なくない。

 台風も、きわだって少ない。いやはや、パーフェクトにはずれてしまった今年です。
 白露の次が「秋分」で、「暑さ寒さも彼岸まで」とはいえ、そろそろ暑さがやわらいでくれないと、夏バテからも立ち直れない感じですよねえ。(汗)

 この夏の暑さで、みんなが、ぼーっとしている間、「セイジ」は停滞の極みといった感じだったけれど、「生体臓器移植」という「医事」は、一気に進んだ。

 立秋が過ぎたばかりの9日には、65年目を迎えた「ナガサキ」とともに、新しい移植法による初の臓器提供がニュース番組を賑わしていた。
 本人の明確な意思表明はなく、家族による同意での臓器提供。
 さらに19日には近畿で初の新法による臓器提供として、本人承諾なし、という前例がつくられた。
 その後も提供が続いた。今でこそ「情報公開が不充分だ」などと追求されているが、もう、まもなくニュースにもならなくなるだろう。

 臓器移植という医療そのものに反対ではない。
 献血だって、アイバンクだって、臓器移植と同じことである。
 どうせ焼いて灰になるものが、誰かのいのちを救うのであれば、それはそのほうがいい。
 だけど、なんだかわりきれないものが、「ゾーキイショク」という救命方法にはつきまとっている。

 有名な話ではあるけれど、40年余り前、札幌医大の和田寿郎という医師によって行なわれた日本で初の心臓移植は、疑惑だらけのもので、臓器提供者にちゃんとした医療を施さずに摘出したのではないかとされ、殺人や死体損壊の疑いで告発された。
 嫌疑不充分で不起訴とはなったけれど、臓器提供者に筋弛緩剤を打つ、などというのは、とても医師の仕業とは思えない。

 この事件を、日本の臓器移植の「不幸な出発点」と言ったりするけれど、案外、最初に本質があらわれたのではないかという気がする。
 外科医というのはたいへんな仕事で、すごいお医者さんもたくさんいるけれど、少し前にあった事件のように、患者を実験台のように扱って、やったこともない手術で死なせてしまう、まさに人の皮をかぶった悪魔のようなクズも、たまに紛れ込む。
 だから、うっかり「わたしの臓器は人々のために」などと口走ってしまうと、実績をあげたくてしかたない冤罪づくりの刑事のように、うずうずしている医者によって、さっさと「脳死」にされてしまう危険がなくはないのだ。

 再生医療の実現までには、まだ、少し時間がかかりそうだ。
 だとすれば、ほかに生き延びるてだてのない患者にとって、耳元で「移植すれば助かりますよ」と、ささやかれるのは、まさにひとすじの光である。なかば、あきらめかけているところに、かすかな確率の希望をもたせるということの功罪については意見がわかれるだろうけれど、医師のエゴイズムで妙な期待を持たせるとしたら、これほど罪つくりなことはない。

 臓器移植をやりたくてしかたない医師にとっては、おお、最高の臓器が提供されそうだ、なんて思ったとき、まわりのことは見えなくなる。
 新法で初の臓器提供という記者会見で、日本臓器移植ネットワークの本部長という女性が、たしか脳死判定されてみずからの臓物を提供する人のことを、「○○センターで管理している…」と説明していた。
 「……で治療している」あるいは「治療を続けてきた」○○さん、ではなく、彼女にとっては「管理している」貴重な臓器なのだ。そこには患者の生命や人格は、すでにない。本音がつい、口をついて出る。

 この、日本臓器移植ネットワークという組織も、ネットワーク、なんていう名前がついているから、なんとなく民間のボランティア団体のようなイメージを持つけれど、どうも、国の外郭団体のようなところらしい。

 提供の根拠となったのが、どういう「家族」の了解か、という質問には「答えられない」と言っていた。
 新法で二例目となる、次の近畿の例では、提供するという本人の意思表明は過去になく、「家族」の同意だけで提供された。

 ま、極端にいえば、どこかでばったり倒れて亡くなったときでも、家族の了解がありました、とさっさと「腑分け」されかねない、ということを感じる。
 それに、おそらく、これから、蘇生の可能性が少ない患者や、亡くなろうとしている患者の家族に対する、臓器提供への有形無形の圧力は強まるだろう。
 すでに、何年か前から、脳死状態や寝たきりでの長期入院ができないようになっている。

 これから、誰かが脳死となれば、家族にとっては、世のため人のために、臓器を提供するのが正しい人の道だ、といったような風潮をつくっていこうとするでしょうね。
 脳死で、臓器が健康なのに、それを差し出さないのは非国民だ、みたいな雰囲気がつくられる可能性もなくはない。

 あなたがここで同意しないがために、生きられる人がもうすぐ死んでしまうかもしれないのですよ。と、まわりの医療関係者が目で語り、無言の圧力となるとしたら、これは怖いことである。
 そして、あとで、ほんとうに、提供した人のいのちは救えなかったのだろうか、と疑問がわくことになれば、これほど不幸なことはない。

 だからこそ、やるなら、きちんと情報公開が必要である。
 受ける側はともかく、提供者は堂々と名乗ればいいのである。ならぱ医療機関も摘出に至る経緯を不明瞭にできない。

 ビジネスにおけるCSRと似ている。
 「あやしい」と思われたら、もう、いけないのだ。
 外科医は切りたくてしようがない人種だ、と世間一般には思われている。
 企業は、なんだかんだといって、結局、儲けたくてしかたないというのが本音だろう、と思われるのと一緒である。
 正論のためにはきちんとがまんもする、それが公的責任である、と「わかって行動している」ということを、ちゃんと証明しなければならない。
 医療機関の「社会的責任」とは何か、どのように果たすべきなのか、疑惑だらけの心臓移植に立ち返ってみると、直接の患者に対してだけではない「説明責任」を果たすことの必要性をあらためて考えざるを得ないだろう。

 それにしても、今のようなシステムで、日本臓器移植ネットワークなんていうあやしげな名前をつけた団体に、腑分けされたくはないな、と思ってしまうのはしかたなさそうだ。
 気軽にドナーカードなんかを持つのは、お年寄りが、初対面の介護士さんに年金手帳も預金通帳も何もかも全部あずけるようなものだろうという気がする。

 少なくとも、親しくもない、素性のわからない医者に、内臓なんか絶対にやらないぞ!(笑) と思ってしまうのは、博愛精神に欠けるでしょうか。
   
ラベル:臓器移植 CSR
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2010年08月06日

青木雅彦さん、という実在から。

旧暦六月二十六日 戊子(つちのえね)

 ひと月あまり前、新しい本が出来上がってきた。
 東京での印刷、製本だったので、遠路トラックで届いた。
 とりあえず、編集委員会メンバーの、大学の先生の研究室に搬入。
 ソフトカバーではあるけれど、A5判336頁というボリウムなので、ちょっとした嵩がある。

 教訓。本は2p以内の厚さでつくりましょう。クロネコメール便で送れます。送料が倍以上違う。しまった(笑)。これだけでも書籍電子化が推進されてしまってみずからの首をしめることを、郵便局は知るべきでしょうね。

 『ハーフ オプション 軍事費を半分に! −市民からの提言−』
 正式なタイトルはこうです。こうしてみると結構長いな。
 著者は青木雅彦さんという市民運動家。
 青木さんは、丹波篠山の出身で、県立の篠山鳳鳴高校を卒業したあと、関西学院大学に学び、物足りなかったのか、さらに、京都大学に入学している。
 2008年の春、亡くなった。

 その業績をまとめて残そうと、彼を知る人たちが集まって「青木雅彦著作出版委員会」をつくった。その中に、先輩エディターが何人かいて、手伝わないかと声をかけてくれた。青木さんという人をよく知りもせずに失礼だったかもしれないけれど、本づくりに加わった。

 委員会の中の、実務を進めるメンバーと、およそ一年間、毎月のように会議を開いて、一冊の書物をかたちにしていった。たいへんだったけれど、これは、じつに楽しい時間だった。
 東京に、やはり古くから青木さんを知る仲間が一人いて、編集から組み版、印刷、製本へのプロセスをフォローしてくれた。
 先輩たちは直接の作業にはあたっていないので、京都で実務にあたるほかのみなさんは、本づくりには、まさに完璧な素人である。だからこそ、かもしれない。そのエネルギーは、ちょっとしたものだった。

 市民運動、と、言葉に定義してしまうのは、なんとなく抵抗があるけれど、既成の政党のような規律に縛られた組織とは少し異なる、ゆるやかなつながりの中で社会の改善をめざす、とでもいえばいいだろうか、そういった地道な作業を続けてきた人たちである。
 世の中、なんかおかしいんじゃないか。少しは考えようよ、できればよくしたい。といった、自然な発想を実践するのは、実際には、たいへん困難をともなうのが、現実の社会である。

 一般人? からみると、そういった、まあ、「なんのトクにもならない」ことを、多くの時間をさいて、しかも自腹を切って、ときにまわりの人も巻き込みながら(笑)、だけど別に自己犠牲でもなんでもなく、まさにサスティナブルにやってきた人たちである。
 だから、作業も、おおいに意見は分かれつつ、じつに自然にまとまる。
 みんな、お互いが「別の個体」であることを熟知し、尊重しているのだ。
 国会のみなさんに、みせてやりたかったね(笑)。

 この本の、青木さんの年譜に、誕生日は入っていない。なんと誰も正確に知らないのだ。
 だけど、その年々の記録については驚くほど詳しい。何がそれぞれの人たちを互いにつないできたのかがわかる。

 いわゆる「遺稿集」にはしない。
 これが唯一の編集方針だった。

 今日は、世界が知るメモリアルデー「ヒロシマ」。
 三日後には「ナガサキ」である。
 青木さんは、「NPTと非核法を考える−ヒロシマ・ナガサキから五〇年目に」で、冒頭、こう書き出している。

 確かにあの五大国というのは、学校の教師に似ている。職員室でタバコをプカプカふかしながら「お前なぁ、タバコを吸うんがどんな悪いことかわかっとんのかぁ! えーっ!」とお説教する教師に。
 生徒がこっそり吸えば犯罪だが、教師にとっては魂のやすらぎをもたらす清涼剤である。同じタバコでもタバコが違うのである。(略)
 核兵器だってそうだ。アメリカやロシアの持っている核兵器は「抑止力によって世界に平和をもたらす天使の贈り物」だが、「核クラブ」以外の国がこれを持とうとすると、「人類に対する犯罪」だの「世界を悪魔の手に委ねる」だのありとあらゆる罵声が浴びせられるばかりか、ときには「鉄拳制裁」をくらう。

 タバコ環境は、若干、今と微妙なニュアンスが異なるかもしれないけれど、このわかりやすい文章は、1994年の終わり頃に執筆されている。

 「ハーフ オプション」という表題は、あとに続くとおり、「軍事費を半分に」減らして、それを、たとえば災害救助や難民対策、貧困や飢餓、あるいは環境保全への基金としよう、といった、青木さんの基本提言による。
 誰だって賛成できるよね、と思うけれど、なかなかそうはいかない。

 世界の軍事費は膨大である。
 核爆弾の開発なんかにカネをかけるより、飢えた子どもたちの食糧を確保するほうが大切なことは、誰もがわかっているはずなのに、未だに、人食い族のような原始的な勢力争いを続けている。

 今年の「ヒロシマ」の式典には、初めて国連の事務総長やアメリカ大使が出席した。
 だけど、「核廃絶」への道は、まだまだ、はるかな道のりにみえる。

 本の中で、青木さんが、マーク・トゥエインの小説を引用している。ちょっと長いけれど転載。

 戦争を煽るやつなんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。……いつも決まって声の大きな一握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。するとさすがに教会なども、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。それから国民の大多数もだ、鈍い目をこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶさ、『不正の戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない』ってね。……だが、それもとうてい長くは続かないね。何しろ煽動屋のほうがはるかに声が大きいんだから。……まず戦争反対の弁士達は石をもって演壇を追われる。そして、凶暴になった群衆の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。……あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国の悪宣伝をやる。国民は国民でうしろめたさがあるせいか、その気休めに、それらの嘘をよろこんで迎えるのだ……こうして、そのうちには、まるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、まことに奇怪な自己欺瞞だが、そのあとではじめて、ぐっすり安眠を神に感謝するわけだな。
――『不思議な少年』

 この暑さだけれど、明日はもう立秋。
 せめて8月くらい、あの、日本人だけで、戦闘員、非戦闘員あわせて200万人以上の犠牲者を出したといわれる戦争がどんなものだったか、ほんの少し、思いをめぐらせてみてもいいのではないだろうか。

    青木雅彦
     『ハーフ オプション 軍事費を半分に! −市民からの提言−』(草莽社)

    ↓ ここで、この本が紹介されています。
      写真がちょっとイマイチですが(笑・謝)。

     http://mamoru.fool.jp/blog/2010/07/post_99.html
   
ラベル:ヒロシマ 軍事費
posted by Office KONDO at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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