2011年01月20日

お山の熊は、夢見ているか。

旧暦十二月十七日 乙亥(きのとい)大寒

 今日は二十四節気の「大寒」。
 「ますます極寒の辛苦にさいなまれ、寒さの絶頂期である」と『現代こよみ読み解き事典』にある。いやー、そういわれると、よけいに寒い。

 今年の冬は雪が多い。
 近江の山のオーソリティ、山本武人さんからいただいたお便りには、元旦を伊吹山頂で迎える予定で出かけたものの、雪と霧が深くて山が寄せつけてくれず、やむをえず山麓で宿泊して戻った、とあった。
 あんな大ベテラン岳人のかたでさえ想定外の、年末の雪でした。

 その後も続く、たびたびの寒波で、奥山は雪にすっかり埋もれているのだろうけれど、クマさんたちは、いい場所をみつけて、ぐっすり冬眠できているだろうか。
 もっとも、「冬眠」と「冬ごもり」は違っているそうで、熊さんのほうは、どうやら「冬ごもり」のほうになるらしい。

 去年、クマさんは受難の年だった。
 京都新聞に載っていた環境省の統計では、4月から10月までの間に430頭のヒグマと2590頭のツキノワグマが捕獲されたというから、あわせて三千頭を超える。そのうち2688頭というから、ほとんどが殺処分されたことになる。これは悲しい。

 京都は古都としての旧市街の狭い範囲、せいぜい足を伸ばして嵐山や高雄、八瀬大原、といった郊外までが観光のエリアとして知られているが、その背後には、鴨川や桂川の原流域から福井県との県境にかけて、かなり広大な山地が広がっている。
 どこからどこまでと定義されているわけではないけれど、この、京都北部を中心とする山々は「北山」と親しみをこめて呼ばれてきた。かつて一世を風靡した京都大学の山岳部のみなさんも、ここを根城として、世界の尾根、ヒマラヤへと挑戦している。
 北山の最深部、芦生(あしゅう)というところには、京都大学が保持している広大な「演習林」もある。以前はたいして気にせず自由に入れたが、今は自然保護もあって、かなり厳格に許可が必要だと聞く。

 「北山」は、北山杉で知られるように、山々には人工林も多く、いまどき言われる里山とはちょっと違うのかもしれないけれど、人とつながりの深い、やっぱり、いうなれば里山の範疇だろう。よほど奥にいかなければ、山をひとつ越すと、たいてい、人里か、そうでなくても廃村がある。

 人の気配の濃い地域でも美しい風景が多いけれど、やっぱり、芦生あたりまで行くと山深く、新緑も紅葉も素晴らしい。長く行かないけれど、今でもそうでしょう。
 ふつう山で道に迷ったら、絶対に沢を下ってはいけない、というのがセオリーだ。渓谷を下ると、大きな落差があって危険だし、突如滝の上部に出たりすると身動きがとれなくなるからだ。
 だけど、北山では、道に迷ったら沢を下れ、といわれてきた。沢筋がおだやかで、比較的安全なため、そのまま人里に出られるから、というわけである。
 それでも、芦生の原生林一帯になると、それは通用しないと教えられた。山深く急峻なところもあり、人里も遠い。
 それだけに、圧倒的な自然の豊かさがある。

 自然が豊かな山奥には、当然、山のオヤジが住んでいる。
 「本土」では、ツキノワグマ。
 ツキノワグマは、元来、温厚な性格だという。
 ヒグマは、クマよけの鈴なんかで音がしていても、興味津々、寄ってくるのだそうで、これは、ちょっと怖い。
 だけど、ツキノワグマは臆病で、ふつう、人の気配を感じたら、顔を合わせる前にさっさと逃げて行く。山中でまれに襲われるのは、向こうも気づかず、たまたま、突然の出会いがしら、となったときなのだ。
 だから、そんなときは別として、山中でクマを見かけたら、まずカメラを出せ、というのが、京都北山では通説だった。
 ここにはヒグマはいないから、ツキノワグマなら、ちょっとはなれていたら、向こうが逃げていく、その前に写真を撮らなくては、というわけだ。

 幸いかどうか、山中でクマさんに出会ったことはないので、カメラを構えることもなかったけれど、クマさんに出くわすことの危険はあまり意識しなかった。むしろ、夏場であれば、マムシのほうが怖かった。
 短パンだとか、山スカート? で歩く今どきの「山ガール」さんたちだと、足もとを笹藪が覆う細い道の多い北山では、噛みついてください、といわんばかりでしょう。
 マムシさんには、一度だけ川原で出会ったことがあって、みんなでひたすら逃げました。こっちに向かってくるし、足が速いもんね。いい若いモンが、30センチほどの細いヒモに蹴散らされているのも、なさけない姿だっただろうな(笑)。

 クマさんは、むかしから人に身近だったのだろう。さまざまなお話しに登場してくる。
 世界で知られるウイニー・ザ・プーの物語や、テディ・ベアといったキャラクターはもとより、たくさんの童話や絵本、民話、説話に、クマさんがあらわれる。
 物語に登場するクマさんは擬人化されているけれど、人と共存はできても、一緒に暮らせるわけではない。
 以前、黒姫までC.W.ニコルさんの取材に行ったとき、庭の片隅に大きな檻があり、確か大人のクマが入っていた。ずいぶん前のことで、正確に覚えていないが、人を襲ったか人家を荒らしたクマで、もう簡単に山には戻せない、と、ニコルさんが悲しそうな顔だったのがよみがえる。たしか、地元で捕らえられたのを、ニコルさんが引き取ったのではなかったか。

 1996年に、星野道夫さんが、カムチャツカでヒグマに襲われてなくなったけれど、あのときは衝撃的だった。
 アラスカに長年暮らしながら野生動物を撮り続け、ホッキョクグマもヒグマも生態を知り尽くしていたはずの熟練写真家が、まさかクマに襲われてなくなるとは、誰も想像できなかったはずだ。
 おそらく、クマのほうが、人のいるところで食糧にありつけることを知りすぎていたのだろう。自然界のバランスがくずれてしまっていること、人が無責任に対応していることに、怒りを感じたものだった。

 去年はトラ年だった。
 トラは、今、世界に3500頭とか3200頭といわれている。
 仕事机の引き出しに、「…the last 5000」と記されて、虎の足跡をかたどったスタンプがある。かなり前のもので、その頃、世界で5000頭といわれ、なんとか護ろう、と認知を広げるキャンペーンでつくられたものを買った。
 だけど、それもむなしく、すでにLAST3200となって、5000ではスタンプできない。

 今年はウサギ年。そういえば、今、日本に野生のウサギはどれくらいいるのだろう。
 トリ年はずっと先になるけれど、すでによく知られる「Today Birds,Tomorrow Men」という言葉がある。
 明日は、人間の番ですよ、という意味。

 冬眠は、今、医学的な注目を集めている。
 人間だったら凍死してしまうような低温状態で、何ヶ月も生命を温存したのちに復活するというしくみは驚異的なものなのだ。
 もしも、このしくみがヒトにも適用できたら、はるかな宇宙旅行や、あるいは、いつかくる氷河期を生き延びるために、画期的な手段となる。
 冬ごもり、と、冬眠、のしくみの違いも含めて、これまでの人智を超えた、すばらしい世界が自然界にはそなわっている。
 こんな、現在の科学からみると超越した能力は、自然の中ではごくあたりまえのことなのだろうけれど、人間は今頃になって、ようやく、そのすごさに気がつきはじめた。

 ヒトが、自分たちが生かされている世界の意味を理解もできないまま、すべてを滅ぼしてしまうのが先か、あるいは、瀬戸際で、その神秘に学んできた原初の生命力を取り戻せるのか。
 クマさんたちは、今、冬ごもりの眠りの中で、何を夢見ているのだろうか。
   
ラベル:冬ごもり
posted by Office KONDO at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

小正月、そしてセンター試験。

旧暦十二月十二日 庚午(かのえうま)

 1月15日。新暦での小正月。
 今日は小豆粥ですね。

 「小正月」という呼び方が生まれたのは、いつ頃からなのだろう。
 簡単な古語辞典をみると、「正月(しゃうぐわつ)」はあるが、「小正月」はない。
『平安時代の儀礼と歳事』(山中裕・鈴木一雄編集/至文堂)といったテキストをみても、小正月にあたるような年中行事がない。「源氏物語」に描かれた宮中にも、出てこなかったのではないか。

 じつは小正月のほうが元旦よりも重要で、むしろ元旦が「小正月」で、小正月のほうが「大正月」だった、とは、よくいわれる。
 このあたりを言い始めると、まあ、「元旦」すなわち「一年の始まり」は、もともと民族によって違った、ということもあり、冬至であったり、収穫の秋だったり、家畜出産の春だったりと、きりがないのだけれど、旧暦でいえば小正月の十五日は、月齢では十五夜。満月のこの日が重視されたのはよくわかる。

 一月十五日を年中行事にあてることは、中国から伝わってきた。
 これは古い。だから、古語辞典でも「小正月」はなくても、「上元(じゃうげん)」は「陰暦正月十五日の称」(『岩波古語辞典増補版』)として載っている。
 中国では、この日が「元宵節(げんしょうせつ)」「上元節(じょうげんせつ)」となる。

 春節(旧正月)の最後を祝う華やかな行事。唐代から始まる。この夜を<元宵>と言い、数日間にわたって、家々の門や道路に美しい灯籠、走馬灯を飾り、竜や獅子、花などを形どった灯籠(行灯)を持って町を行進する。南方の<竜灯>(蛇踊り)、北方の<氷灯>も有名。<灯節><観灯会>とも言う。唐代以前には<祈蚕>の行事が行われていた。(『大漢語林』鎌田正・米山寅太郎/大修館書店)

 中元が七月十五日、下元が十月十五日ですね。
 ここに出てくる「祈蚕」という行事が何なのか、興味を惹かれるものの、今、ゆっくり調べている時間がありません(苦)。

 日本の年中行事で圧倒的に維持されているのが「正月」と「盆」だが、それに対比されるのが、中国でいえば「上元」と「中秋」だそうである。

 上元と中秋において、一致していることの一つは、この日、女性が外出することである。
 たとえば、江蘇省蘇州では、元夕、つまり正月十五日の夜、婦女相引き連れて市街を遊行し、橋三つを超えて帰る。こうすると、一年中病気に罹らないそうである。これを走三橋という。(『正月の来た道』大林太良/小学館)
 
小正月が「女正月」と呼ばれていろいろな風習が残っていたりするのも、このあたりから日本流にアレンジされてきたのかもしれない。

 上元は、当然だが、朝鮮にも伝わっている。
 『東国歳時記』には「上元」の項があり、

 薬飯 炊いた糯(もち)米に棗(なつめ)、栗、胡麻油、蜂蜜、醤油などを混ぜ合わせ、松の実(五葉松の実)を入れて再び蒸す。これを名づけて薬飯(または薬食)という。上元(正月十五日)のときの佳い時食であるばかりでなく、祭祀にも供え物として用いる。けだしこれは、新羅時代からの旧俗である。(『朝鮮歳時記』東洋文庫/平凡社)
 また、
 赤豆粥 正月十五日の前日、赤い小豆の粥をつくって食べる。かんがうるに、『荊楚歳時記』に、「州里の風俗に、門を祭るに先んじて、柳の枝を門に挿し、豆粥に箸を挿してこれを祭る」と書いており、今の風俗に赤豆粥を食するのはこれに似ている。」
とある。(同上)

 うーっ、薬飯、食ってみたい。韓国料理店なんかで出していないかな。

 「小正月」が、かつては「成人の日」として祝日に指定されていたため、かろうじて年中行事が保たれていたものの、ハッピーマンデー制度という、まやかしの「余暇」づくりのおかげで、すっかり影が薄くなってしまったことには、何度かふれた。

小正月が消えていく?
http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/112649329.html?1264365678
すっかり消えた小正月
http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/139279445.html

 今も、余暇の有効利用などといって、休日分散化のためにゴールデンウイークを地域ごとにずらす、などと馬鹿な検討をあきらめてはいないようで、いまだに労力をさいているらしいけれど、愚かとしかいいようがない。
 「国民祝日」のひとつひとつの成立には賛否両論あるかもしれないけれど、一応の背景を持ち、文化的に利用されていた祝日を、ただ連休をつくるためだけにあっちに寄せ集め、こっちに寄せ集めるのなら、最初から、「国民春休み」でも「秋の休日週間」でも、なんだってつくればいい。
 へんに歴史や時間に小細工して、愚行にむりやり「裏づけ」をくっつけようとするのは、政治家が小役人と変わらないことを示す、アリバイづくりの発想である。

 休日をいじくることで簡単に「余暇」をまとめて消費させることが可能なのは、せいぜい大企業と公務員くらいのものだ。根本的な労働制度のしくみで保証されないかぎり、実質的な「余暇」など増えるわけがない。
 休日制度を柔軟に、として、地域ごとに、などというなら、都道府県別に、その府県の三大祭の日でも、まさに県の「祭日」にして、学校も企業も休みにすればいい。地域振興の最たるものだ。
 だいたい「観光」というのは、その土地の「光を観る」ことだ。地域それぞれの歴史や伝統を地元の人たちが大切にできていてこそ、観光に訪れる客にとって大きな価値となる。

 もともとの休日を、ごちゃごちゃ動かそう、なんていうところで「柔軟な発想」の押しつけをしているより、もっとやることはある。

 今年はこの「小正月」に「大学入試センター試験」が重なった。センター試験と小正月は関係ないけれど、試験はいつも、だいたいこの時期。
 かわいそうでしょう!
 こんなにリスクの大きい季節に、なんでわざわざ、一生を左右するような試験を実施するのか。せめて12月の前半とか、まあ、観光シーズンをはずせばいいのではないか。
 早く進路が決まると、あとは勉強しなくなるからというのだろうか。
 合格しても、失敗しても、年が明けてから、時間の余裕をもって先の進路をみつめ直せるほうがいいのではないか。

 必ずといっていいほど雪が降って交通が乱れ、風邪やインフルエンザが流行し、それでなくてもコンディションの管理が難しい、最も障害の生じやすい季節に、わかっていて、人生のサイコロを振らせるのは、ほとんど虐めとしかみえない。
 まさに、「戦前感覚?!」の根性主義。
 教育関係者は、なぜ、こんなことを、ずっと認めているのだろう。

 企業も大学も同じである。
 じつは相手のことを考えない。
 学生も消費者も、ただの無機的マーケットとしかみていないのである。
 だから、大学は、無反省に、ただ学生が勉強しないとだけ嘆き、日本の企業は世界に出遅れてあわてた。
 日本企業にマーケットインが欠けていた、と近頃よく言われる。
 要は、相手の立場に立つ、そのあたりまえの姿勢がなかっただけのことだ。
   
posted by Office KONDO at 04:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月09日

フォークの女王、ジョーン・バエズ。

旧暦十二月六日 甲子(きのえね)

 フォークの女王、といっても「大食い選手権優勝者」でも「パスタの食べ方がきれいな女性ナンバーワン」でもありません。
 フォーク、といえば「フォーク・ソング」ですね。
 ボブ・ディラン、とか、ピート・シーガー、なんていう名前になんとなく聞き覚えがあるのは、今の日本で何歳代くらいまでになるのだろう。

 今日、1月9日は、ジョーン・バエズさんの生まれた日。
 親の誕生日さえきちんと覚えていない人間が、なぜ外国の歌手の誕生日まで知っているか、というと、追っかけでもなんでもなくて、一所懸命、資料調べをして、原稿を書いたからです。(笑)

 21世紀に入って、もう、一割が消費されたけれど、世紀をまたぐ前には、ミレニアム、といってみんな騒いでいた。
 まさか、日本の「失われた十年」が、二十年になるとは誰も思っていなかったでしょうね。

 新しい千年紀を前に、あちこちで盛り上がりをみせたけれど、その頃、これまでにもいろいろな著書を出しておられる大先輩が、さすがの餅は餅屋、終わりゆく20世紀のカルチャーを振り返って、多くの人にニックネームで呼ばれた偉人を集めて振り返るという本を企画、手伝わないかと声をかけていただいた。
 真珠王・御木本幸吉や、鉄鋼王・カーネギーから、流通の革命児・中内功(正確には文字のつくりが力でなく刀)、銀幕の妖精・オードリーヘップバーン、さらには、サッチモや東京ローズ、ジュリーにいたるまで、十数人を担当することになった。

 いやあ、たいへんだったけれど、面白かった。
 京都の図書館では、特に雑誌資料などがまったく無いので、生駒に近いようなあたりに、たしか新設移転して間もなかった大阪の中央図書館まで遠征、カンヅメで資料調べをしてコピーをとり、制限一杯まで本を借りて帰る、という一日仕事を何度も繰り返した。

 一冊の本にでもなる生涯を持つ人たちの人生を、まるで見てきたように(笑)、二頁の見開きで凝縮するというのは、じつにむずかしい。原稿が短くなるほど、一行のニュアンスや、ひと文字の間違いが決定的な影響を及ぼすことになる。

 で、じつは、「フォークの女王」はボツになった原稿です。(笑)
 掲載人物を、百人ちょうどでまとめなければならなかったので、あまってしまって日の目をみなかった。(泣)
 とはいえ、版権はちゃんと出版社にありますから(『ニックネーム20世紀の100人』池田良孝編著/東京書籍)、このブログからでも、版元に無断でコピペすると、著作権法にふれます。(注)


フォークの女王
コンサートに圧力がかかった反戦・平和の旗手
ジョーン・バエズ

 「あれっ、なんだか変だな」と、テレビを見ていた多くの人が思った。一九六七年の一月、ジョーン・バエズが初めて来日したときのコンサート中継である。バエズが何か語っているはずなのに、そばにいる通訳は何も言わない。確か「ベトナム」と言ったはずなのに、その言葉はまったく通訳された日本語に出てこない。会場に、なんとなくぎくしゃくとした雰囲気が漂うのが、テレビ画面を通じても感じられた。
 当時"駅前留学"もなかったし、今ほど多くの日本人が英語を理解したわけでもないが、このことは、やはり後で問題になった。通訳は、反戦歌『サイゴンの花嫁』や、原爆を歌った『雨を汚したのは誰』といった歌の内容説明、長崎・広島についてのバエズの発言をまったく伝えないで、さらに「ベトナム戦争に使う税金は払わない」といった話を「アメリカでは税金が高い」と意図的に「誤訳」していたのだ。
 この時の通訳をつとめたディスクジョッキー、高崎一郎氏は、のちに「アメリカ大使館のハロルド・クーパーと名乗る男」から圧力がかかったと語り、アメリカ大使館はその名前の館員はいないとコメントしている。
 滞在中、こういった類のことがいろいろ続いて、心労からバエズは宿舎で嘔吐し、ヒロシマのカキにあたったという話が流れた。バエズ自身は、牡蠣は嫌いで食べなかったのに…。 こうして、バエズの最初の日本体験に愉快な思い出は少なかったが、けっしてそればかりではないことは、その後も幾度か来日コンサートを行なったことで示してくれている。
 バエズ初来日と同じ年の秋には、ピート・シーガーも再来日して関西の平和集会で歌ったりしている。当時ベトナム戦争は激化への道をたどり、日本でも反戦運動が盛り上がっていた。五九年のニューポート・フォーク・フェスティバルで鮮烈にデビューして以来、たちまちにして人々の心をとらえ、公民権運動ではキング牧師とともに三五万人をリードして『勝利を我等に』を歌ってきた「反戦・平和」を象徴する「フォークの女王」が、アメリカ政府にとって見過ごすことのできない存在であったことは確かといえる。
 日本では、フォーク・ソングの衰退とともに忘れられた存在のようになっているが、バエズは、その後もベトナム難民の救援や、ワレサ議長やサハロフ博士との会見など、精力的に世界を飛び回って活動を続けてきた。もちろん歌うことも忘れてはいない。九七年発売のCD『gone from danger』をみると、トレードマークだった長い黒髪はカットし、以前よりふっくらとしてみえる。あの高く澄んだ声も少しアルトになったようだ。しかし「五歳になる頃には、おぼろげながらも、私は世界のどこかには毎晩おなかを空かせたままベッドに入る子供がいるということに気づいていた」と自伝で語った人権と平和への意識は、少しも変わっていないことだろう。

●フォーク・シンガー。一九四一年、ニューヨーク州スタッテンアイランドに生まれる。一九五九年の第一回ニュー・ポート・フォーク・フェスティバルで、最初はバック・アップ・シンガーとして登場しながら鮮烈なソプラノで絶賛を浴び、たちまち「フォークの女王」と呼ばれるようになった。ベトナム反戦運動の高まりの中で象徴的な存在となり、幾度か来日した。ちなみに、日本で「キャンパス・フォークの女王」と呼ばれた森山良子が、バエズ初来日の頃、レコードデビューしている。

 バエズさんは、宵ゑびすの生まれなんですね。アメリカでは関係ないだろうけれど。
 今日で70歳。おお! 古稀なんだ。
 初来日は、たしか1月11日となっていたのではなかったか。ゑべっさんでは、残り福。あ、これも、関係ありませんが。

 あらためまして、あけましておめでとうございます。
 ブログをご覧いただいているみなさんに、今頃の新年で深謝です。
 年末はアクシデント続きであたふたと過ごし、今年もお正月の三が日は年賀状の宛名書きにあけくれました。お出しした方々には、いつもながら遅いごあいさつでお詫びを申し上げます。
 謹賀新年。今年もどうぞよろしくお願いいたします。それぞれのかたにとって、よい一年が訪れますように。
   
posted by Office KONDO at 04:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。