2011年06月06日

目くそと談合して鼻くそと罵られた総理大臣。

旧暦五月五日 端午の節供 壬辰(みずのえたつ) 芒種

 今日は、旧暦では五月五日、端午の節供だ。そして二十四節気では、芒種となる。
 端午の節供については、↓ こちらを。
 http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/118645089.html

 季節の変わり目に合わせて宰相を衣替えしようとしたわけではないだろうけれど、政争の茶番劇を見ていると、国会議事堂に塩でも撒いて、節供の厄払いをしたい気分になりますね。菖蒲なんかもったいない。

 日本にジャーナリズムなんてあるのかと誰かが言っていたけれど、内閣不信任案をめぐるテレビの報道番組をみていると、確かにそう思う。
 マスコミの論調は、みんな横並びに「永田町はいいかげんにしてほしい」というけれど、何も本質的な取材をせず、上っ面を垂れ流して煽ってきたのは君たちだろう、と言いたくなる。足でかせぐこともせず、視聴者と同じレベルで政治家を馬鹿にしながら、記者会見で偉そうな質問をするだけで、本質に突っ込むほどの準備も勉強もしていない。ニュース番組でコメントするテレビ局政治部の記者なんか、友だちどうしで飲みながら世間話をしているのかと思うようなノリである。公に発言することへの責任感などゼロだろう。

 いつ辞めるか、なんかでいちい大騒ぎをするなよ、と、つくづく情けない。
 菅さんを引きずり下ろして、あと、もう少しでもましな交代要員といっても、じゃあ、誰がいるの? と、多くの人が思っている。

 今、何をするかが、いちばん大切ではないのか。

 まあ、なんだかんだといって、いちばんいいかげんだったのは鳩山由起夫さんでしょうね。
 内閣不信任案に賛成すると断言したものの「鳩山グループ」からは誰もついてこない、どうも否決の可能性が高いとなって、ヘタすると自分も民主党から切られかねないと不安になった。で、仲を取り持つと「確認書」を取り交わしたものの、菅直人さん側のほうが、やや強気で処理できたから、あいまいなものにした。
 「ウソをつくことはいけません」って、鳩山さんに言われたくはないよね。
 沖縄の基地問題では「最低でも県外」などと言い、「引退する」と言って居座り、あげくのはてに、不信任案に「賛成です」と断言して「反対」。
 「目くそ、鼻くそを笑う」とはよく言ったもので、人のことをペテン師と言えた義理ではないだろう。
 こんな人物と「談合」した菅さんも、地に落ちたものだ。
 国民を無視して、内輪の「確認書」で政権のありようを決めるなど、じつに馬鹿にした話である。

 退陣の時期を明確にしないことで、いくらかのしたたかさを示したつもりだったかもしれないが、鳩山さんがすり寄ってきた時点で情勢を読み、相手の足許を見透かして突っぱねるところまではいかなかった。
 民主党なんか、割ってしまえばよかったのである。
 鳩山さんも小沢さんも除名して、勝手に別の党をつくらせればいい。むしろ、それで、民主党は、少なくとも今と同等か、それ以上の支持率は得られていただろう。そのあたりが、保身政治家になってしまったことによる、「空気の読めない」保守化だろう。

 小沢一郎さんにもまいった。最大の「ウソつき」は彼なのではないか。
 不信任決議案は小沢さんが自民党に仕掛けたとも言われている。
 今さら「欠席」?
 多くの論客が、「オザワの政治力」をずっと期待してきたが、所詮、政局づくりにしか手腕は発揮できないことがはっきりとしてきた。
 震災復興についても、いくらでもいいアイデアがあるなどとというのなら、出し惜しみせずに公表すればいい。その上で、だから現政権への不信任案に与党から賛成するのだ、と主張することで、本当に正当性があれば説得力を持つだろう。じつは、いいアイデアなど持っているはずがない。彼に発想できるのは、せいぜい高速無料化やこども手当のような4K政策くらいのものである。
 もうウンザリである。冤罪でもいいからさっさと収監してくれとまで思ってしまう。いまや日本のガンかもしれない。

 菅さんが、セコいながらも一本取ったような結果になったが、たとえ時期はあきらかにしなくても辞任に言及したことで、政権は他国の信用を失い、レイムダック化するだろうと言われている。
 菅さんは、「辞める」ことを前提として言ってしまうことへの、国際社会からの見方は考えていなかったのではないか。内輪の駆け引きに勝ち、政権継続をめざすことに汲々としている視野の狭い政権にあっては、世界の中でしたたかに戦い抜くことまではとても思いがおよばないのだろう。

 自民党、公明党といった旧与党は、原発事故に対する反省をまったく口にしていない。こういう事態に陥った原因をつくった最大の責任は自民党である。リスク管理のできない原子力政策も、安全保安院や原子力安全委員会といった無能な組織を放置してきたのも、電力会社だけに限らない政官財の癒着も、そして何より、消費税を口にせざるを得ない財政破綻も、いったい、誰の責任なの? と言いたくなる。
 民主党がだめだから、じゃあ、ふたたび自民党の支持率が上がる、などという国民の能天気さが続く以上、彼らはああして「政局」を楽しみ続けるのでしょう。

 それにしても、なぜ、あんなに菅直人が嫌われるのだろう。
 なんで不信任なのか、どこに辞めさせる理由があるのか、で、辞めさせたあと、どうしようというのか、何もよくわからない。辞めろと、引きずり下ろすために群がっているだけで、展望は何もないのである。
 とにかくアイツにだけはやらせたくない、とでもまわりが思っているようにしか見えない。
 少なくとも「世間一般」では今のところ、鳩山さんや谷垣さん、まして小沢さんよりは、まだしも菅さんのほうが、ずっと「マシ」だとみられているような空気があるが、永田町では圧倒的に敵が多そうだ。

 「イラ菅」としての実際の顔まではわからないが、菅さんは、総理大臣就任以来、追い詰められるたびに開き直ってきたことで、「先祖返り」してきたのではないかという気がする。
 菅さんは市民運動出身である。もともとは、いわば「反権力」からの出自だ。
 旧い政権にとっては、邪魔でしかたない存在の人種だったはずだ。
 これまでの、印象に残る功績は、薬害エイズ問題の解決(国の謝罪)と諫早湾の開門(国の上告断念)だろう。これらの出来事は、それまでの自民党大臣ではあり得なかったことであり、あたりまえの判断をしたことで、「国民の常識」と「政治の感覚」が、少し近づいたように、多くの人が思った。

 浜岡原発の運転停止要請も、その延長線上にある。こんなことは谷垣さんや小沢さんでは、やはりあり得ない。独占事業で調子に乗っていた電力会社はみんなあわてた。まさか、いきなりくるとは考えていなかった中部電力の水野明久社長は、腹わたが煮えくりかえる思いだっただろう。
 ただし、その、浜岡原発の停止要請は、独断専行だった。
 じつは、菅さんには結構そういうことが多そうである。根回しはしない、ヒロイズムが先に立つ、まず理屈で考える、対抗勢力を排除しようとする。
 良くも悪くも、学生運動的な臭いが強く残っているのだが、なんとなくアマチュアリズムを残しながら、一方で、民主党で小沢さん相手に身につけた妙な駆け引きをするから、ややこしい。あげくに、唯一の生命線である情報公開ができなくなった。
 ちゃんと成熟できてこなかったということだろうか。

 もっとも、国民感情と永田町の感覚は大きくかけ離れているから、結果オーライで進んできているのである。
 官僚と敵対しているから、国際的な情勢が読み切れず、北方領土問題では外交用語を無視して「暴挙」と発言してしまったが、日本人の大半は、メドベージェフなんかロシアのチンピラだと思っているし、菅さんは、その感情をそのまま、国際政治にぶつけただけということにしか、一般の目には映らない。
 浜岡原発の停止も、手続き的にはいろいろあるのだろうけれど、「世論」の圧倒的な支持を背景に、一気に結論を出した。

 菅さんが時折うち出す政策は、ちゃんとした一貫性があるとも、もともと論理的に考えてきたとも思えないものが多いのだが、やっぱり結果オーライであり、世間の空気はうまくつかんできた。だけど、ときには「法的手続き」も無視しているから、かなり危険な政権でもある。そして何より「政治的手続き」を踏まないものだから、永田町にとっては許せないことになる。
 鳩山さんも、小沢さんも、もともと自民党である。
 ある意味、旧来の「自民党的なるもの」と「反自民党的なるもの」との権力闘争がはっきりしてきたのではないか。
 その明確な構図を示すことができれば、管政権は生き延びるかもしれない。どこまで成熟した先祖返りをすることができるのか。しかし、密室で確認書を交わしているようでは、もう、実は熟成することなく腐って落ちるだけだろう。
   
タグ:菅直人
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2011年06月01日

将来、「福島被曝集団訴訟」は起きるのか。

旧暦四月三十日 丁亥(ひのとい)

 いささか昔の話になるけれど、まだ二十代半ばの頃、すでに鬼籍にある須山節郎さんという大先輩を中心に、先輩や友人たちと「勉強会」を定期的に続けていた時期があった。たいてい、あの、京都今出川の「ほんやら洞」二階を借りてやっていた。たまに京都御苑の芝生の上でやったこともあった。
 須山さんは市井の思想家で、誠実で、ユニークで、その一方、みずからの歴史を重くひきずっている印象のある人だった。勉強会の中では親父のような存在で、京都の新興住宅地でボタン屋さんを営みながら、人と社会の将来に希望を持ち、交友関係は広かった。
 その後、自分たちだけでの勉強会では物足りなくて、自由学校のような場所を始めよう、ということになり、今度は近衛道の京大会館の一室を借りて、本格的に講師を招き、毎月の講座を持つようになった。日高六郎さん、鶴見俊輔さん、すでに亡き飯沼二郎さん……錚々たる講師陣を須山さんは引っ張ってきた。

 たしか、その頃、そのあたりの何かの集まりでだったと思う、こちらもずっと先輩ではあるが、当時まだ新進気鋭の塩沢由典さんという経済学者のかたが、「社会党も共産党も、その理想どおり社会をひっくり返したら、生活水準は十年、二十年、遡るという覚悟が必要であることを、人々にストレートに言わなければならない」と言った言葉が、それまで聞いたことのなかったわかりやすさへの、ものすごい共感とともに、強烈に印象に残っている。「そう、その覚悟が価値観というものなのだ」と、何で誰もこれまで正直にそう言えなかったのか、その頃の社会変革の主張の薄っぺらさを切実に感じたものだった。
 その後、ずいぶん経って、たまたま塩沢さんとお目にかかる機会があったとき、そのことを言ったら、ご本人は、そんなことを言ったっけ、とおっしゃっていたが、こちらは、そのひとつの科白だけで、日本で最も的確な経済学者だと今でも勝手に思っているのである。

 なぜ、そんなことを今頃、思い出したのか。
 原発ですね。
 原発の稼働を次々と止めて、脱原発に移行していったら、電力が足りない、ということがしきりと喧伝されている。それはある程度、確かなことだろう。不足するところまではいかなくても、綱渡りということにはなるかもしれない。
 だけど、それは、個々人の暮らしの問題ではない。夏場の冷房需要が、などというけれど、地面はすべて舗装し、太陽熱を家の中に溜め込むつくりの集合住宅に住まわされている庶民に、クーラーの使用を控えろ、というのは根本的に間違っている。
 大口需要はなんといっても国際資本である。街に熱をこもらせるように地面をすべてコンクリートで固めるようにしたのは自動車のためであり、ゼネコンの利益のためだった。個人所有の自家用車という交通手段を核とした生活様式を推進して、違ったライフスタイルへの圧倒的な優位を確保することで、自動車産業という「種」は、ほかの産業生態を駆逐してきた。電力を圧倒的に使っているのは自動車産業と、そこに関連する鉄鋼などの素材産業である。

 日本の国際競争力のために、などという扇動で人々の欲望を煽ることには、さすがに、販促業界も疲れてきています(笑)。
 自動車産業が日本の経済を牽引しているから、という言い分は、ヤクザの親分が地域の治安を維持しているから、というような言い方と同じである。カネを稼いできている旦那はエラい、と言っているだけのこと、結果論だ。
 エコカー、でごまかされているけれど、一人で乗って走るならあんなにでかい自家用車はいらないし、エネルギーとしては、本気になれば、列車のような大量輸送のほうが、ずっとコスト効率はいいだろう。現代社会は、公共交通の効率を落とす社会構造にシフトすること、共同体の価値観や決定権を薄めることで、バラバラの素粒子のようになった個人を都会に集めてきた。互いにつながっていない粒子は、引き合うことも反発し合うこともなく、密集させやすくて支配しやすい。

 日本人は今、長く貧しい時代が続いて苦しいから、稼いでくる産業であれば軍需産業でもなんでもいい、という全面肯定に立ち、理念も、原理原則も捨ててしまった。あらゆる点で、本来正しいのか正しくないのかといったような、日本人として、人としての心には、立脚していない。政治も、情けなくも経済利益の追求至上主義である。

 原発がいちばん電力コストが安いなどというのは大嘘である。
 今回の事故でわかるように、ひとたびおかしくなったら甚大な被害が生まれる。政治家と電力会社、そして学者も含めた役人たちの癒着で、いいかげんな賠償法がつくられているが、そんなものが何の意味もなさないことが、今回、はっきりとした。
 事故のリスクへのきちんとした対策や、万一への保険、それに放射性廃棄物の処理費用などを含めていけば、原子力が安価な電源コストだなどという論理が、土地の狭い地震大国、日本で成り立つわけはない。どんなふうにして、そんな詐欺のような数字を堂々とつくり出したのか。

 だけど、そんな詐欺的な数字のからくりをどこかに感じていながら、日本の国民は原子力発電がクリーンで安価だという共同幻想に相乗りした。そこには、快適な現代生活を捨てたくないという本音への言い訳、自分に対するアリバイづくりがあっただろう。
 フクシマの事故がなければ、ずっと夢見ていられたのかもしれない。
 そして、やはりここでも、共産党も社民党も、アブナイとは主張しても、現実を語ってはこなかったのだ。

 そしてまた、福島原発の、じつは早くにわかっていたはずのメルトダウンは、多くのことを白日の下にさらした。
 日本の科学技術、ことにロボットのテクノロジーは世界の最先端にあると思っていたのだけれど、所詮、実戦となるとアメリカから借りてくるしかなかったとか、あの原子炉がいかにアメリカの技術の押しつけであり、GEが設計のキモを隠しているとか、長大なアームで水を注ぐポンプ車も、中国の企業から寄付されないと自前で持っていなかったとか、排水の処理にもフランスの知恵に頼るしかなかった、とか、それまでは漠然と、日本の「すごい」科学力からすれば、たいていのことはなんとかなるだろう、とみんながイメージしていたことも、まったくの幻想に過ぎなかったことが明らかになった。
 もっとも、じつは、技術はある、と思う。なかったのではなくて、「存在する」技術も、愚かな役所仕事のおかげですべてが錆び付いたり、腐ってしまったりして、役立たなくなってしまうという事情が、少しわかってきた、ということなのだろう。

 誰も、東電も政府も信じていない。
 国民がパニックになるといけないのでデータを発表しなかった?
 ふうん。
 圧力が高まれば爆発するとか、温度があがれば溶けるはずだとか、水を入れたら溜まるか漏れるかするといったような、子供でもわかることなのに、えっ、今頃そんなことを言っているの? という話ばかりが未だに次々と出てくる。 
 ほかのことなら、馬鹿馬鹿しくて相手にしていられない、といったところだけれど、直接、被害を受けている人たちにとっては、ことさら深刻である。

 事故現場の最前線にいる作業員の人たちは、おそらく大半が下請け、孫請けということなのだろう、いかに粗末に扱われているかという実態が、これも、今頃になってまだまだ出てきている。
 最初の頃、線量計も持たせずに作業にあたらせていた、と問題になったときには、線量計の数が足りなかった、などという言い訳を、ぬけぬけと言っていた。あんなもの、ネットでもそこら中で販売していた。
 メシもろくに食べられず、床でごろ寝をしながら働く労働者に、下手をすれば一国が危うくなるほどの危機を託していることを報道で知って、日本中が怒り、同情し、指揮をする東電と政府の軽さに背筋が寒くなったものだった。

 その後、多少改善されたかもしれないが、おそらく、電力会社の、下請け作業現場に対するイヌネコ扱いの本質は変わっていない。
 へたをすれば急激な放射線量の変化で、短時間で命にかかわる事態に遭遇するかもしれない人たちであり、すでに三ヶ月近い接近戦の中では、疲労だけでなく蓄積された被曝量も大きくなっているだろう。第一、ちゃんと計ろうという気がないのである。
 だから、各方面から、万一の大量被曝に備えて、いざというときの治療に役だてるため、作業員それぞれの造血幹細胞を採取しておくことが進言されているが、東電も政府も耳を傾けようとはしない。
 なぜか。
 実際にそういう対策をとることになれば、危険性の高さを認めることになる、という論理なのだ。
 原子力「安全」委員会も、内閣官房も、もちろん東電なんかにその気はない。人の命より体面が優先している。「必要ない」といっている人たち、それぞれに、自分の家族であればおそらく真っ先に採取を依頼するだろう。

 あれほどの被害を出し、非難を一身に浴びながら、役員報酬を40%減らすといって雲行きが悪いとみながらも、では50%にしますなどと、とぼけた反応を繰り返してきた東京電力の経営陣に、自浄能力などない。あげくのはてが副社長の社長昇格で収まると思っているのだろうか。
 これでは人員が回らないとなると、作業員の被曝限度を100ミリから250ミリに上げた東電。避難域を拡大するのはたいへんだと、子供被曝の許容量を10ミリとか1ミリとか言いながら、結局20ミリにした文部科学省。いずれも、運用しやすい数字にして、あとから理屈をあてはめているだけ。医学的根拠も倫理観も何もない。
 おそらく、こういったご都合優先のまやかしは、これからも次々と出てくるだろう。
 来年1月の終息、なんてあり得ない。

 薬害エイズの問題にしても、C型肝炎の問題にしても、被害者の側に立証責任を押しつけて抑え込もうという、法律の陰湿さが壁になった。ヒロシマやナガサキの被爆者手帳さえ、未だにちゃんと交付されない人たちがいる。
 今回の事故処理の手抜かりと、いいかげんな対策で、これから何十年か先「福島被曝集団訴訟」が起きる可能性は充分に考えられる。
 もしそうなったら、そのときの補償額は一国をゆるがすかもしれない。人数がケタ違いなのである。そのとき、「賠償国債」でも発行するのだろうか。
 まっとうなコスト計算のできていない、政府のリスク管理も、結局は東電と同レベルのものでしかないのである。

 その頃にもまだ、被害者の立証責任などという前時代的な苦労が、相変わらず求められているのだとしたら、福島だけでなく、周辺地域の人々は、今から組織的に、何十年か先の、その準備をしておいたほうがいいだろう。
 ひょっとしたら、最初「SPEEDI」のデータを隠していたのは、そこまで読んだ「国家を思う」官僚の、深謀遠慮だった?
 おそらく、今の避難への賠償金支払いの時には、また「念書」をとろうとするのでしょうね。
   
タグ:原発 被曝 電力
posted by Office KONDO at 07:43| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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