2011年07月16日

村上春樹さんのカタルーニャでのスピーチ

旧暦六月十六日 壬申(みずのえさる)

 昨日はめずらしく、新暦の15日が、そのままひと月遅れの旧暦十五日と重なって、新暦でも十五夜となる満月だった。きれいなお月さんを、北の土地でも誰か見上げていただろうか。

 菅直人さんは、もう、すっかり、大津波の被災地は忘れてしまいましたね。
 顔を見たくないのなら、と三度も繰り返し言って、再生エネルギー法案を通せ、とはしゃいでいた映像からは、かつて小泉純一郎さんがブッシュジュニアの前でプレスリーの真似をして「いちびって」いたときの、ブッシュさんの困惑した顔を思い出したものでした。

 総理大臣になったときには、多くの人が期待したと思うのだけれど、所詮、団塊世代というか全共闘世代というか、あの世代が足を地につけられなかった「思想的ヒロイズム」にすぎなかったのかと、情けない気持ちになる。

 だからといって、ほかにまっとうな政治家がどれほどいるかというのも、あやしい話で、想像力の持てないみなさんには、被災地ツアーでアリバイをつくるのではなく、避難所で、連日、まわりの景色を見ながら国会を開いてもらうしか、わからせる手段はないのだろうと思ってしまう。

 原発の惨状は、報道されることが少なくなっただけで、変わってはいない。
 困難な状況を、わずかにできることだけでも、きちんと解決していこうとせず、政争の具にしようとする人たちには、あきれるしかないが、原発については、別のところで、この間ずっと、喉に刺さった小骨のように気になっていたことがある。
 村上春樹さんの、あの、スペイン、カタルーニャでのスピーチだ。

 六月九日だったか、カタルーニャ国際賞受賞に際しての「非現実的な夢想家として」と題されたこのスピーチは、すぐれた文学者らしい誠意に満ちた内容だった。

 ただ、最初に、テレビニュースで一部を聞いたものの、なんとなく気になったままでいたので、しばらくあとで、念のため、毎日新聞のニュースサイトから全文をプリントアウトしておいた。今になってふたたびサイトをひらいたら、もうすでに文面はなくなっていたので、プリントしておいた自分をほめつつ(笑)、雑多なスクラップの山からプリントを探し出した。
 四百字でなら三十枚くらいの量だろう。
 作家の文章だから、ニュースサイトでも著作権がからむのかな。

 あらためて読み直してみて、何がひっかかっていたのかがわかった。
 ひとつは、今回の原発事故を「我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害」と述べていること。

 意識的に外したのでなければ「三度目」ですね。
 言うまでもなく、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下。
 今回の、フクシマでの原発暴走事故。
 そして、この間に、千隻にも及ぶといわれる、アメリカによるビキニ環礁水爆実験での日本漁船被災がある。このときには、死者も出ている。
 ここでも「ビキニデー」には、何度かふれてきた。

http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/188133868.html
http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/archives/200902-1.html

 村上さんが知らなかった、とは思えないのだけれど、今も残る「第五福竜丸」に象徴されるビキニの被災は、明らかに「大きな核の被害」である。

 もうひとつは、フクシマの事故にいたる根源的な原因について「何故そんなことになったのか? (略) 我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?」と自問して、その理由を「効率」であると言っていること。

 効率主義が社会を歪ませてきたことは明らかだし、そのことはよくわかる。
 「原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。」と村上さんが言う後半はそのとおりで、前半はおそらく村上さんの皮肉も込められていると思うが、電力会社のウソである。原子力発電ほど燃料を無駄にしている発電システムはない。使い切らないから原爆の材料になったりする。しかも、残り滓の始末には、効率どころか、方法さえも見つかっていない。

 効率主義が社会を駄目にした、という判断に反対はしない。
 チャップリンの映画は面白くて正しい。
 だけど、もっと根源、つまり、何が社会のしくみや生産のシステムに効率を求めるようにし向けたのか、を問えば、「欲望」だろう。

 「効率」が社会を歪めたと言ってしまえば、じつに効率の悪い仕事をしている文学者はなんとなく責任を逃れられるような気になれる。
 だけど、「欲望」は、すべての人間が明らかに持っている。社会の歪みは、自分自身を含めた、すべての人々の責任なのだ。だからこそ、気づいた者には、気づかない者を弾劾する権利もあるのではないか。

 かつて太平洋戦争に敗北した日本で、手のひらを返したようにそれまでの政治を全否定し、かつての戦争賛美者までもすべてが「民主主義者」になったといわれる。
 今、原発事故を境に、同じような「原子力全否定」と「脱原発主義者」が生まれている。

 九州電力のやらせメールが問題になっているが、あんなものは、当然行なわれていると誰もが思っていた。原子力発電の宣伝にかかわることは、かつての豊田商事のような詐欺商法のパンフレットをつくるようなリスクがあると、判断力のある制作者は感じていた。
 原発の危険性を今さら検証しなくても、とっくに多くの人たちがそのデータベースをつくっている。今、あらためて「見直し」や「検証」を叫んでいるのは、これまで原発を推進してきた人たちなのだ。

 「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。」と、村上春樹さんはスピーチの中で反省している。
 ずっと以前に短編集を一冊読んで、好印象を持ったけれど、そのときには深い問題意識は感じなかった。才能があって、誠実な人だと思う。
 だけど、「効率」の追求を責めて、人の、みずからの内なる「欲望」を見過ごしたとすれば、それは、どこかに、文学者であることは実利社会との隔絶を意味して、現実的な罪の連帯を免れるものだ、という無意識のアリバイづくりがはたらいている、としかいえないような気がする。
 と、ここまで考えて、喉にひっかかっていた小骨かなんだったか、ようやくわかってきたのだった。
   
posted by Office KONDO at 01:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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