2012年02月22日

光市の母子殺人事件から

旧暦二月一日 癸丑(みずのとうし)

 光市の母子殺害事件で、上告が棄却され、死刑が確定した。
 判決には、その経緯があるので、その部分においては、これが正しいとか間違っているとか軽々とはいえないけれど、結論は妥当ではないか。

 人を意図的に殺したならば、死をもって償わなければならない。
 これは、原理原則だと思う。ここでも何度か言ってきた。

 未成年、というのも、基準は難しい。
 幼い子どもが、わけもわからず銃や刃物のような殺傷能力のある道具にふれて、過って人を殺すことになった、というようなことは、意識以前の出来事になる。だけど、思春期を迎え、未熟で不安定とはいえ、善悪の区別はついていなければならない年代であれば、責任の有無をいうのはおかしいだろう。

 18歳と1カ月。犯行時としては最年少の死刑囚となるようだ。
 しかし、この年齢で、少年だからと死刑を回避するのはおかしい。比較はしにくいかもしれないけれど、かつて元服は15歳くらいだった。現代においては青少年が未熟だ、というのなら、社会のありかたのほうを考えるべきだろう。
 
 ならば、年齢がどんどん下がっていけば、ということにもなるかもしれないけれど、先にふれたように、幼い子どもが能動的に人を殺すことはない。要は、「殺意」があったかなかったかの一点である。

 被告が更生のきざしをみせているとか、真摯な反省がうかがえないとか、そういった判断も分かれているようだけれど、こういった要素は、犯した罪そのものを問う判決とは、別の問題なのではないか。
 被告の側も、原告の側も、裁判が社会性を帯びると、どこか感情に訴えてきたような観がある。
 死には死をもって報いよ! という責め苦ではない。
 死には死をもって償う。それしか責任の取り方がないのである。

 ただし、更生の道なんか閉ざしてしまえ、と言っているのではない。
 情状酌量はあってしかるべきである。
 しかし、判決に「情状酌量」などという、「どうとでも判断できる要素」を入れるからややこしくなる。
 行為に対する判決は「死刑」なのだ。
 情状酌量、のような、寛容が入りこむのは、そのあとでなければならない。
 行為に対する判定に、なんで最初から感情的判断が入りこむのか。社会関係における判定で、あるいはスポーツにおける反則へのペナルティで、情状酌量のような、人によって判断の分かれるような決定は本来あってはならない。混乱を招く結果にしかならない。

 今回、<「死亡した被害者が2人」の「少年事件」で、初の死刑が確定する意味は大きい>という論調で新聞記事は書かれていた。( 京都新聞2/21朝刊=おそらく共同通信の配信による )
 くだらない理論である。殺した相手の人間が何人だから死刑になる、ならない、などと、誰が決められるのか。殺された人は生き返らないのだ。1人だけなら死刑にはしない、などと誰が言えるのか。何人殺せば死刑、などという陳腐な基準を「暗黙の了解」としてきた「法曹」という世界の規範は、いかにも適当なものに感じられる。

 人を殺したら死刑。これは、シンプルな原則でなければならない。
 そして、その判決によって、その刑罰の執行をただちに行なうかどうかは、別の問題である。死刑判決が下されても、本人が、まさに「真摯に反省」し、「更生しうる」きざしががあれば、あらたな道が開かれてもいいと思う。
 そういう可能性をつくっていないのが現在の法律だが、死刑回避があり得るとすれば、本来はそのほうが順序ではないか。
 死刑判決と、死刑執行とを切り離して考えるしくみをつくればいいのだ。

 とかく極刑になるような犯罪についてばかり「更生の可能性」がとりざたされるが、じつは、もっと「軽い」(といっていいのかどうかは別として)犯罪で収監され、刑を受けた犯罪者の更生のほうが、はるかに問題ではないのか。
 人一人の命は重い、という理念のもとに、死刑廃止論者はみずからを美化しているようにみえるし、殺された人の多数としか、一人の犯罪者の命は引き換えられない、という主張など、おおいなる矛盾としか考えられない。もっと、更生しうる可能性の高い多くの「犯罪者」を社会復帰させることにこそ、労力を注ぐべきではないのかという気がする。「殺してしまう」という犯罪は、被害者に対する謝罪も償いも、永遠に不可能なのだ。

 その意味では、殺人を「合法的に」認めているかのような、戦争における殺人も無視することはできない。
 ここでは、「命令によって人を殺した」場合の責任が問われる。やむを得なかった、というのは嘘だ。殺人への参加そのものを拒否する意志がまず問われる。そして、それが可能であったかどうかが問われる。
 もし、命令のもとで殺人を犯す、という「戦場の論理」が、日常社会と同等におかれれば、殺人の示唆と実行の関係になるのか、共謀になるのか、そのあたりは不勉強で、現行の法律でどう規定しているのかよくわからないが、いずれにしても、兵士は「殺人犯」として罪を問われることになるだろう。そうなれば、その戦争行為への参加自体を、まず、みずからの意志で決めなければならない。日常社会で、「言われるままに人を殺しました」という言い訳では、絶対に無罪にはならない。
 死刑廃止論、というのは、もともと欧米の「ヒューマニズム」からの発想である。その裏には、身勝手な優生思想と、戦争殺人正当化の論理があるような気がしてならない。

 光市の事件は、弁護士資格を疑ってしまうような橋下某さんが、弁護団に、くだらない横やりを入れて物議をかもし、よけいにややこしくなった裁判だったが、こういった、人の命のやりとりをする裁判が「話題」になるたびに、ふらふらと政治家のようになっている、それも世間知らずで保身に汲々としている上級の裁判官たちを想像して、うんざりとしてしまうのである。
   
 
posted by Office KONDO at 04:17| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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