2011年09月13日

「大連立」より「大乱立」を。

旧暦八月十六日 辛未(かのとひつじ)

 民主党の代表選で、しばらく騒がしかったと思ったら、新内閣が発足した途端に重要閣僚が「失言」で辞任した。
 なんだか、慣れっこになってしまったような感覚で、もう、驚きもしない。
 新任まもなく「失言」や「暴言」で退任する人たちが多いのは、「念願の」大臣になれたことが嬉しくて、つい、はしゃいでしまうのでしょうね。
 本来なら、とくにこういう時期、大臣拝命といったら、まず重圧を感じるのがほんとうなのだろうけれど。

 民主党代表選の前、京都新聞の社会面では、
  政権党「最後の機会」
  「国民不在」興ざめ
と、いつになく大きな見出しが目を引いていた。
 月並みといえば月並みだが、社会の空気はあらわしていた。
 もう、誰も国政に期待していない。
 さんざん自民党の利権政治と官僚の腐敗を見せられてきて、さすがに業を煮やした国民が民主党に首をすげ替えたら、このていたらく。

 もともと自民党出身の小沢一郎さんや鳩山由起夫さんのつくった政党だからねえ、ともいえないのが、市民運動家、とされ、社民連から民主党を経て総理大臣になった菅直人さんが、結局は、人々を支える器でなかった、という大きな失望感をもたらしたことによる情けなさである。
 いざ、というときに何も力が発揮できなかった、ということは、結局、能力がなかったということで終わる。
 過去に評価された菅さんの実績は、すべて無に帰してしまった感があるが、このことのほうが、人々の社会観、政治観にとって、ダメージが大きいのではないか。

 もとテレビキャスターで、菅政権の発足後、すべての仕事を辞めて菅内閣の広報担当となった、下村健一さんという人が、インターネット上で、菅直人という人物が、外から見るイメージに反して、説明責任を嫌う政治家だったことを明かしている。

http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20110831-03-0901.html

 「情報開示」を金看板に掲げていたはずの民主党である。「情報」は、ただ垂れ流せばいいというものではない。出所を明らかにし、比較対照できる情報・資料も提示し、時には、その情報の持つ意味を、主体的判断をもって解説する必要もある。
 ならば、個人的にそれを好むか好まざるかにかかわらず、人を頼ってでも、状況と情報を「説明」する責任は明らかにあるだろう。

 企業でいえばCSRにあたる。
 企業のトップが、現在進行形の企業行動を、「説明するより手を打つ方が先だ」というのはよくある話だが、企業の場合、仮に緊急事態だとして事後承認になっても、その「事後」において、きちんとした説明責任が果たされなければ、株主をはじめ、ステークホルダーから批判を受けるのは明らかだし、広報部門では、見るも無惨なニュースリリースしか発信できない。その結果、たちまちにして、今はやりの「ブランド価値」なんて崩壊してしまう。

 民主党の代表選では、二位・三位連合が手を組んで、二番目の選手を当選させた。
 別に、一位の海江田さんがよかったなどとも、さらさら思わないけれど、スポーツであれば、予選で一着になった選手が、次もタイムを上げていたら当然一着になるだろうけれど、二着の選手が、三着や予選落ちの選手と記録を合わせて優勝できる、というのが政治の世界の「面白さ」なのだろう。
 まあ、誰がなってもいいや、どうせよくはならんだろう、と、見ているのも面倒くさくなってくるのがなさけない。

 今、こういう人たちしか出てこない、という、社会のしくみそのものを変えなければならないときではないかという気がしてくる。

 「民主主義」などというけれど、国会議員の比率は、得票率とまったく見合っていない。上位チームがプラスとなるハンディをもらい、下位チームはマイナスとなるペナルティを課せられているようなものだ。
 まさに、弱者虐待である。
 「政治の安定のために」などというインチキなご都合主義をふりかざして、選挙制度を、多くの死票を産み出す小選挙区制につくりかえたが、その結果、不安定きわまりない政治状況が続いているというのは、皮肉なものだ。

 いわゆる先進国は、未だリーマンショックの尾を引いているが、金融崩壊を、表層雪崩ではなくて底雪崩にしたのが、レバレッジという手法だったことは、記憶に新しい。
 レバレッジ=てこの原理を応用して、少ない資本で大きな取引を行なうという、みせかけで経済を動かす「金融工学」は、まさに小選挙区制と同じだ。
 二番人気と三番人気が合同することで、一番人気より配当が多いというのもなかなか微妙な力学だけれど、少ない得票でも第一党でさえあればすべての決定権を持てる、というのもコワイ話である。
 レバレッジ政治というのも、そのままいけば、やはり、いずれ大崩壊するのではないだろうか。

 大連立、などと騒いでいるが、政策が共通して一致団結するようにはとてもみえない。それぞれの思惑ばかりで、被災地も原発も、どこかに行ってしまった。
 小選挙区で、ナンバーワン政党だけがくっきりと浮かび上がり、それが全権を握る、というのは、いかにも西洋合理主義。まさに、当事者にだけ「効率」のいい話として成立するのである。
 小選挙区制などやめて、政党は得票数にみあった議員を出せばいい。
 少数政党が乱立して何が悪いのか。
 みんなで知恵を出し合って、ひとつひとつのテーマに対して一致点を見出していけばいいのだ。プロセスにこそ知恵がある。その調整ができることが、人間の知性というものだろう。

 人は知性の生きものである。知性とは何か、相手を殺して食べ物を独占するのでなく、足りなければ分け合ってしのぎ、みんなが少しでもたくさん食べられるように、知恵と力を出し合うことである。

 おそらく、日本だけの問題ではないのだろう。
 世界は今、構造そのものが行き詰まっている。

 少し前、富士通研究所が、スマートフォンが音声認識した日本語の、英語への翻訳精度を、従来の1.5〜2倍に高めたというニュースが新聞に載っていた。
 これも実用にはまだまだだろうけれど、いずれ、いつか将来には、携帯電話で自動翻訳しながら、異なる言語どうしで話せるようになるだろう。
 世界がひとつになっていけば、言葉の差は乗り越えられても、風習やしきたり、そんな「文化」の違いが思わぬ障壁になることもある。それを根気よく調整して相互扶助をはかっていくための知恵は、いやでも民族文化の大乱立の中から産み出さなければならないのだ。

 日本のしがらみ社会のような架空ワールドでちまちまと政治をやっている時代は、本来、とっくに終わっているはずだった。
 だけど、おそらく、小選挙区制を主張した人たちがいちばん古くさいことをやっているのではないだろうか。

 松下政経塾、というのがおおはやりのようだ。何を教える塾なのかはよくわからないが、政界に出身者が目立ってきた。
 足が地についた政治がそこから生まれるのかどうなのか。
 「民主主義」が、「金融工学」の真似をして「政治工学」のような発想になってしまうとすれば、まさに大暴落を招くことになるだろう。
   
ラベル:大連立 民主主義
posted by Office KONDO at 17:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
どなたかも生物多様性になぞらえて、二大政党なんて、
ちゃんちゃらおかしいと喝破していましたよ♪
全く言われてみればその通りで、色々な考え方があって良い訳で…★
Posted by nomoto at 2011年12月30日 00:15
二大政党があたりまえ、と思わされているのは、マスコミの垂れ流し情報のおかげでしょうね。で、その「正論」のもとは、二大政党制の国ですね。
Posted by はんそく通信子 at 2012年02月22日 04:23
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