2011年01月09日

フォークの女王、ジョーン・バエズ。

旧暦十二月六日 甲子(きのえね)

 フォークの女王、といっても「大食い選手権優勝者」でも「パスタの食べ方がきれいな女性ナンバーワン」でもありません。
 フォーク、といえば「フォーク・ソング」ですね。
 ボブ・ディラン、とか、ピート・シーガー、なんていう名前になんとなく聞き覚えがあるのは、今の日本で何歳代くらいまでになるのだろう。

 今日、1月9日は、ジョーン・バエズさんの生まれた日。
 親の誕生日さえきちんと覚えていない人間が、なぜ外国の歌手の誕生日まで知っているか、というと、追っかけでもなんでもなくて、一所懸命、資料調べをして、原稿を書いたからです。(笑)

 21世紀に入って、もう、一割が消費されたけれど、世紀をまたぐ前には、ミレニアム、といってみんな騒いでいた。
 まさか、日本の「失われた十年」が、二十年になるとは誰も思っていなかったでしょうね。

 新しい千年紀を前に、あちこちで盛り上がりをみせたけれど、その頃、これまでにもいろいろな著書を出しておられる大先輩が、さすがの餅は餅屋、終わりゆく20世紀のカルチャーを振り返って、多くの人にニックネームで呼ばれた偉人を集めて振り返るという本を企画、手伝わないかと声をかけていただいた。
 真珠王・御木本幸吉や、鉄鋼王・カーネギーから、流通の革命児・中内功(正確には文字のつくりが力でなく刀)、銀幕の妖精・オードリーヘップバーン、さらには、サッチモや東京ローズ、ジュリーにいたるまで、十数人を担当することになった。

 いやあ、たいへんだったけれど、面白かった。
 京都の図書館では、特に雑誌資料などがまったく無いので、生駒に近いようなあたりに、たしか新設移転して間もなかった大阪の中央図書館まで遠征、カンヅメで資料調べをしてコピーをとり、制限一杯まで本を借りて帰る、という一日仕事を何度も繰り返した。

 一冊の本にでもなる生涯を持つ人たちの人生を、まるで見てきたように(笑)、二頁の見開きで凝縮するというのは、じつにむずかしい。原稿が短くなるほど、一行のニュアンスや、ひと文字の間違いが決定的な影響を及ぼすことになる。

 で、じつは、「フォークの女王」はボツになった原稿です。(笑)
 掲載人物を、百人ちょうどでまとめなければならなかったので、あまってしまって日の目をみなかった。(泣)
 とはいえ、版権はちゃんと出版社にありますから(『ニックネーム20世紀の100人』池田良孝編著/東京書籍)、このブログからでも、版元に無断でコピペすると、著作権法にふれます。(注)


フォークの女王
コンサートに圧力がかかった反戦・平和の旗手
ジョーン・バエズ

 「あれっ、なんだか変だな」と、テレビを見ていた多くの人が思った。一九六七年の一月、ジョーン・バエズが初めて来日したときのコンサート中継である。バエズが何か語っているはずなのに、そばにいる通訳は何も言わない。確か「ベトナム」と言ったはずなのに、その言葉はまったく通訳された日本語に出てこない。会場に、なんとなくぎくしゃくとした雰囲気が漂うのが、テレビ画面を通じても感じられた。
 当時"駅前留学"もなかったし、今ほど多くの日本人が英語を理解したわけでもないが、このことは、やはり後で問題になった。通訳は、反戦歌『サイゴンの花嫁』や、原爆を歌った『雨を汚したのは誰』といった歌の内容説明、長崎・広島についてのバエズの発言をまったく伝えないで、さらに「ベトナム戦争に使う税金は払わない」といった話を「アメリカでは税金が高い」と意図的に「誤訳」していたのだ。
 この時の通訳をつとめたディスクジョッキー、高崎一郎氏は、のちに「アメリカ大使館のハロルド・クーパーと名乗る男」から圧力がかかったと語り、アメリカ大使館はその名前の館員はいないとコメントしている。
 滞在中、こういった類のことがいろいろ続いて、心労からバエズは宿舎で嘔吐し、ヒロシマのカキにあたったという話が流れた。バエズ自身は、牡蠣は嫌いで食べなかったのに…。 こうして、バエズの最初の日本体験に愉快な思い出は少なかったが、けっしてそればかりではないことは、その後も幾度か来日コンサートを行なったことで示してくれている。
 バエズ初来日と同じ年の秋には、ピート・シーガーも再来日して関西の平和集会で歌ったりしている。当時ベトナム戦争は激化への道をたどり、日本でも反戦運動が盛り上がっていた。五九年のニューポート・フォーク・フェスティバルで鮮烈にデビューして以来、たちまちにして人々の心をとらえ、公民権運動ではキング牧師とともに三五万人をリードして『勝利を我等に』を歌ってきた「反戦・平和」を象徴する「フォークの女王」が、アメリカ政府にとって見過ごすことのできない存在であったことは確かといえる。
 日本では、フォーク・ソングの衰退とともに忘れられた存在のようになっているが、バエズは、その後もベトナム難民の救援や、ワレサ議長やサハロフ博士との会見など、精力的に世界を飛び回って活動を続けてきた。もちろん歌うことも忘れてはいない。九七年発売のCD『gone from danger』をみると、トレードマークだった長い黒髪はカットし、以前よりふっくらとしてみえる。あの高く澄んだ声も少しアルトになったようだ。しかし「五歳になる頃には、おぼろげながらも、私は世界のどこかには毎晩おなかを空かせたままベッドに入る子供がいるということに気づいていた」と自伝で語った人権と平和への意識は、少しも変わっていないことだろう。

●フォーク・シンガー。一九四一年、ニューヨーク州スタッテンアイランドに生まれる。一九五九年の第一回ニュー・ポート・フォーク・フェスティバルで、最初はバック・アップ・シンガーとして登場しながら鮮烈なソプラノで絶賛を浴び、たちまち「フォークの女王」と呼ばれるようになった。ベトナム反戦運動の高まりの中で象徴的な存在となり、幾度か来日した。ちなみに、日本で「キャンパス・フォークの女王」と呼ばれた森山良子が、バエズ初来日の頃、レコードデビューしている。

 バエズさんは、宵ゑびすの生まれなんですね。アメリカでは関係ないだろうけれど。
 今日で70歳。おお! 古稀なんだ。
 初来日は、たしか1月11日となっていたのではなかったか。ゑべっさんでは、残り福。あ、これも、関係ありませんが。

 あらためまして、あけましておめでとうございます。
 ブログをご覧いただいているみなさんに、今頃の新年で深謝です。
 年末はアクシデント続きであたふたと過ごし、今年もお正月の三が日は年賀状の宛名書きにあけくれました。お出しした方々には、いつもながら遅いごあいさつでお詫びを申し上げます。
 謹賀新年。今年もどうぞよろしくお願いいたします。それぞれのかたにとって、よい一年が訪れますように。
   
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2010年12月15日

変わる京都の商業集積/参 近鉄百貨店からヨドバシカメラへ

旧暦十一月十日 己亥(つちのとい)

 ちょうど、シャープがガラパゴスの予約販売を開始した先週十日、京都駅前にオープンしてひと月あまりになる「ヨドバシカメラ マルチメディア京都」を初めてのぞいてみた。
 近鉄跡地にヨドバシ、で、ほかにもテナントが入るということで、そうか「ヨドバシビル」ということなのだ、と想像していたが、行ってみると「ヨドバシモール」か「ヨドバシデパート」といった感じ。
 もともと百貨店の跡地だから、広い。

 地上8階、地下2階。オープンのさらにひと月前くらいに出ていた日経MJの記事では、建物の延べ床面積が約7万3千平方メートル、地下1階と地上1〜3階の直営部分の売場面積が約2万1千平方メートルとしていた。階数の比率では直営面積の数字がちょっと少ないという気がするのは、バックヤードか何かで、やや狭まっているのだろうか。
 売上げは、初年度で4百億円を目指すということだから、業態は違うけれど、09年度の百貨店ランキングでの全国40位台なかばにあたる数字。今年、撤退した四条河原町阪急の跡地に、来年進出してくる丸井の新宿店が(行ったことはないけれど)350億円あまりというから、結構強気なのでしょうね。
 ちなみに、百貨店では、京都の高島屋が9百億円強、大丸が7百億円強、伊勢丹が6百5十億円弱、となっている。

 しかも、同じJRの大阪駅前にヨドバシ梅田店があり、ここはなんと、年間約1千億円を売り上げている! のだそうだ。直通でつながる路線の、どちらもメインターミナルだから、やはり、いくらかは共食いするでしょう。
 いやはや、強気です。だけど、定着すれば、スケール的には充分可能、という印象はありますね。

 この場所にもともとあった「京都近鉄百貨店」は、「プラッツ近鉄」となったあと07年の春には閉鎖されたが、それまで、おそらく2百億円前後だったのではないか。
 ざっくばらんというか、四条通の高島屋や大丸と違って、まあ、雪駄履きでぶらぶらできる、といったような、気さくな百貨店だった。
 中二階のような妙なスペースがあって、思わぬところにギャラリーがあったり、どこかしら面白い商業空間で、男性ファッションなんかも、おじさん向けのブランドが多かったし、なんというか、全体的に、とにかく庶民的な印象でしたね。
 撤退が決まる前のプラッツ近鉄には、無印良品や旭屋書店、ソフマップなどが入っていて、結構若者も集めていたし、地下のスーパーなんかも悪くなかったのではないかと思うのだけれど、最上階あたりの、自店直営のフロアは、いつも閑古鳥が鳴いていた。

 「京都近鉄百貨店」の前身は「丸物百貨店」だが、ウィキペディアによると、創業時には「京都物産館」といったのだそうだ。その「物」をとって丸で囲んだので「丸物」。なるほど、ネット時代の利点、名前のなぞがとけました。これはまず確かでしょう。
 そのウィキペディアによると、1977年に「京都近鉄百貨店」に改称されたそうだが、それまでの「キャッチコピー」が「FRONT KYOTOまるぶつ」だったというから、なかなかモダンなキャッチで押していたのですね。

 近鉄百貨店、の名残を感じさせるテナントとして、ヨドバシにも「コムサイズム」が入っていて、おお、なつかしや。継承しているのは、ここくらいかな。
 河原町のBALビル地下から、いつの間にか撤退した輸入玩具の「ボーネルンド」をみつけたのは意外だったけれど、ここに入るからBALを撤退したのではないと言っていた。もっとも、タイミング的にはちょうど入れ替わり。BALの地下では集客力が弱かったのだろう。ここのほうが目にはつきやすい。あとは客層と価格帯とのマッチングだろうけれど、遠くからでも集客できるネームバリューがどうなのでしょう。

 この、ヨドバシのマルチメディア館、店舗の印象は、とりあえず、広い。
 トイレが、大きな駅や劇場のように広い。
 レジカウンターもやたらと広く、カウンターの数も、それぞれに並ぶレジの数も多い。これは、百貨店などとはまったく違う。
 トイレもレジも、ありあまるほどの余裕があるのは、客にとってはゆったりする。おそらく、最大の混み具合のときの回転を想定した設定なのだろう。通常はレジもすべてに人員を配置しているわけではない。そのあたりのオペレーションをみてみたいものだけれど、わざわざ年末や正月に見に来る気はありません(笑)。

 電化製品はとにかく、品揃えがすごい。フロアの余裕ですね。
 これまでの京都の電器店の感覚からは、圧倒される。カメラ機材なんかも、ミニスタジオや除湿庫のようなプロ、セミプロ用品が、家電店のテレビや冷蔵庫のようにずらりとならんでいるのには驚いた。
 梅田店もちらっとのぞいたことがあったと思うのだけれど、こういう品揃えの印象が残っていない。どうだったかな。ただ、とにかく、客の数は、大阪のほうがはるかに多かった。

 最上階は、いわばレストラン街。やっぱりもう、構成は百貨店ですね。
 地下に文具店があって、シュレッダーのように家電の延長といえる商品は、これまたみたことがないほどずらりとならんでいたが、ビジネス文具的なものは、フロアが広いわりには品揃えが物足りなかった。リフィルなんかの多様さはない。やっぱり、少し専門外、というところなのだろうか。

 店員さんは寺町より愛想がいい。これは、同じ京都駅前、近くにある先輩進出店、ビッグカメラも同じ。ナショナルチェーンの人材教育システムによるところだろう。
 寺町に限らず、京都既存の電器店は、大型店でも、伝統的商店(笑)。愛想がよくない。もっとも人間くさいというか、無愛想でもなじみやすいようなところがあるのですけれどね。

 エスカレータが同じ乗り口から上下双方に行ける、並列式、とでもいうのだろうか、4列の昇降口が一箇所にまとまっているスタイルは、これもスペースのゆとりなのだろうけれど、新鮮だった。便利である。行ったら逆向きだった、という面倒がない。

 冒頭にふれた「本日登場」のガラパゴスは、そのエスカレーター昇降口のすぐ脇、両側に分かれて、ソニーの電子書籍リーダーと対置したコーナーがつくられていた。これはまたふれると長くなるので(笑)さておいて、ガラパゴスは予約販売のみだからか店員さんはつかず、カタログと電子看板だけ。ソニーのリーダーのほうは店員さんがいて、ぱらぱらだけれど、人が途切れずに話を訊いていた。
 ガラパゴスにはそれほど関心がないが、そのコーナーの背景の電子看板、いわゆるデジタルサイネージに少し興味をひかれた。

 畳一枚よりは小さい、70センチ×140センチくらいだろうか、縦長のディスプレイを三枚並べてワイドな壁状の画面をつくり、PRの映像を流している。
 こういったものは、かつてなら、いかにもディスプレイに宣伝映像を放映している、といった感じだったのが、大型の街頭映像のようで、スマートな印象だった。
 これに限らず、エレベータドアのサイド壁面など、電子看板の多用が目立っていた。双方向というわけでもないし、シンプルな映像看板で、デジタルサイネージとしての機能に驚かされる、といった活用はされていない感じだけれど、京都の既存店ではあまりみられなかったことだ。

 また、じつにやぼったく泥臭いデザインなのだけれど、フロアガイドが4カ国語で書かれているのは、あらためて、国際都市といいながら閉鎖的な、京都のビジネスを反省されられるところ。これは東京、大阪でのニーズ反映でしょうね。
 たとえば行政のホームページでも、京都市は最近ようやく4カ国語になったが、神戸市などでは7カ国語8言語対応である。

 ゲーム機の流れもあってか、玩具にチカラを入れるのは最近の家電量販店の流れのようだけれど、一画にガチャポンがずらり勢揃いした、コーナーというより、もう専門店というのか(笑)。数えなかったけれど、おそらく四、五百台は並んでいるのではないか、いわゆるカプセル玩具のフロアがあった。
 一週間で二百万円くらい売り上げるといっていた。あなどるなかれ。

 ファッションのテナントには、たとえばシューズや紳士服、スポーツ、といったジャンルでも品揃えやコンセプトの違う同業他社が入っていたりして、競合と補完ををしている感じ。ショッピングモールに近いものがある。
 ユニクロが入ったのは、最近の百貨店の動向に似ている。
 一方、地下の食品売場の横に百円ショップがあるところなどは、スーパーのノリだ。

 ひと足先に、ここよりさらに京都駅に近く、不便なホームに降りるとはいえ、一応、駅に「直通」でオープンしたビッグカメラは、なぜか酒まで自社で扱う、といったそれなりのオールインワンの店舗をめざしている感じだけれど、ヨドバシカメラは、テナントを活用してのオールインワンをめざしているといったところだろうか。
 ヨドバシは、家電フロアも、文具も、食品も、またテナントの部分でも、価格的に、事前に想像していたようには、ことに安いという印象はないけれど、とにかく品数の多さは、競争力をかなり後押しするだろう。目で見て選ぶという点では圧倒的に有利といえる。

 少なくとも、京都の既成の業界に与えるインパクトが、かなり大きいことは間違いない。
 うーん、いよいよ、寺町がまさに生き残れるかどうかは、風前の灯のようにさえ感じられてくる。

 東京では有楽町西武が閉店セールの真っ最中らしい。
 これほど大きな商業構造変化の波は、戦後、つまり今のような体制になって初めてなのではないだろうか。インターネットもからんで、業態や業種の既成概念は、捨てたほうがいい時代になりつつあるのだろう。
   
ラベル:繁華街 京都
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2010年12月03日

延坪島と、支離滅裂の民主党政権。

旧暦十月二十八日 丁亥(ひのとい)

 延坪島と書いてヨンビョンドと読むらしい。
 ウィキペディアによると、大延坪島(テヨンビョンド)と小延坪島(ソヨンビョンド)のふたつの島からなるそうだ。
 若干拡大した朝鮮半島が一頁だけ載っているような、よくある「世界総合地図帳」なんかで見ても、どこにあるのかわからない。

 島は「ド」なのですね。あの、韓国で一千万人を動員したといわれる映画の、タイトルとなった「シルミド」の漢字表記は、実尾島。
 そういえば、韓国ではどこまでがハングル化されているのだろう。
 北朝鮮は、正式国名もすべてがハングルらしい。

 それはともかくとして、北朝鮮軍が、その延坪島をいきなり砲撃したのは周知のことで、日本のテレビが相変わらずのワイドショー的ノリで、連日、現地や韓国本土からの「レポート」や「専門家の分析」を流し続けた。

 それにしても、北朝鮮の金王朝は、次々とひどいことをする。
 ついに、政治家や軍隊にではなく、あからさまに民家を破壊して、非軍人を殺傷した。
 もっとも、彼らの、人間の尊厳に対する想像力の無さは、すでに拉致問題で明らかではある。

 「軍事境界線」で長くへだてられ、国名が違うといっても、同胞だろう。
 そこに親兄弟、親戚がいてもおかしくないはずの、彼らにとって同国人、を、いきなり無差別に殺したのである。
 中東で、若者をそそのかして自爆させ、無抵抗の市民を無差別に殺している連中と同じ、無情、無感性の人非人、ひとでなしである。
 被害を受けた韓国内が冷静だとはいえ、「メッセージ」として市民を殺す、というのは、やはり、尋常なことではない。

    売り家と唐様で書く三代目

 こんな川柳を、記憶ではなんとなく学校で習ったような気がしている。けれど、考えてみると、教科書に載るものでもありませんねえ。
 初代は苦労して身を起こし財をなして、大店と富を築き上げた。二代目はまあまあ、なんとか、惰性というか慣性というか、受け継いだ威光の残りを食いつないできた。だけど三代目になると、さすがにそれも尽き、甘やかされてきた坊ちゃんには盛り返すチカラも無く、せいぜい身につけた、おしゃれな教養である唐様、つまり流行りの筆遣いで「売り家」と書いている。そんな意味だったと思う。

 まあ、金王朝の「ちび大将」と呼ばれているらしい三代目に、しゃれた当代の流行りが身についているとも見えないし、また、初代が努力して国を築き上げたとも思えないけれど、四代目の国家相続がないことだけは確かだろう。
 その時、かつてのルーマニアのチャウシェスク夫妻のような末路をたどるのか、中国共産党をたよって亡命するのか。
 ときどき日本のニュースに映像が流れる、あの朝鮮中央テレビの、やたら威勢のいい恫喝おばさんなんかも、無事では終わらないでしょうね。

 四日間にわたる米韓の合同軍事演習が終了したが、さすがに二代目も三代目も、平壌を10分でたたける位置にいる米空母ジョージ・ワシントンを前にして、ちょっかいをだすという無謀なことはしなかった。
 空母艦名のジョージ・ワシントンは、アメリカの初代大統領。
 うーん、やっぱり、二代目、三代目とは勢いが違う?
 ちなみに、その母港は横須賀。アメリカの軍艦だが、じつは日本の港に所属しているのだ。お恥ずかしいことに、今度の騒ぎまで知らなかった。でも、多くの人がそうではないだろうか。沖縄の実態もそうですね。

 野次馬としては、むしろ、金ちゃんがちょっかいを出したときに、米軍がどう反応するかを見たいな、という興味もなくはなかったけれど、北朝鮮が反撃されて死傷者が出るのは民間人、という可能性も高いから、まあ、無事に終了してよかった、というところでしょう。
 だけど、ごていねいなことに、まだ年内にもう一度米韓で合同演習をやることが予定されているらしいから、予断はゆるされない。
 中国にとっても、黄海は、日本の東京湾のようなもの。人民解放軍のいらだちは最高潮だったでしょう。

 かつて、ニクソン大統領下のアメリカは、チリのアジェンデ政権をクーデター工作で転覆させるという暴挙を行なっている。相手がこの金王朝なら、世界の誰も非難しないだろうけれど、今、そういった能力がないのは、目下話題のウィキリークスへの機密漏洩の状況をみていれば、納得できるのかもしれない。
 難民発生を避けたい、というのが、とりあえず、周辺国にとっての「戦々兢々」と考えれば、中国共産党政府が、裏工作で金王朝をひっくり返す、できれば無血転覆する、というのが、まあ中国支配下にはなっても、現状ではいちばん「まし」なシナリオかもしれない。
 だけど、みている限り、中国共産党にも、そういった細工をする能力はないのでしょうね。

 で、たしか今日3日から、今度は日米での合同軍事演習が行なわれる。そこに韓国が初めてオブザーバーで参加する。ジョージ・ワシントンも忙しいことだ。
 こちらはさすがに、黄海に展開などということはないけれど、日本海や東シナ海、太平洋と、あちこちでやるらしい。島嶼防衛を含む作戦、というのは、尖閣をにらんでいるわけですね。
 まあ、みんなで挑発しあってどうするの、と思うけれど。

 そんな、好戦的気分で盛り上がる「世論」に迎合しようと、民主党政権が打ち出したのが、「高校教育無償化の朝鮮学校への適用手続き停止」だった。
 それであたりまえ、みたいな風潮があるけれど、それはおかしい。

 北朝鮮を牛耳っているのが金王朝であり、その支配が朝鮮労働党の名のもとに行なわれていて、日本国内の朝鮮学校がその影響下にあるということもわからなくはないけれど、だからといって「特別扱いの仲間はずれ」として圧迫することは、太平洋戦争の際に、在米日本人が受けた扱い、また、在日中国人、在日朝鮮人が受けた扱いに通じる。
 関東大震災のときには、日本にいる中国人や朝鮮人がこれに乗じて暴動をおこすなどといって、理不尽に虐殺された。太平洋戦争末期においても、多くの人が拘束され、殺されている。
 考え方として通底する。たいして変わりはない。

 国会では、「『外交上の問題と教育の問題は別』としてきた政府見解と矛盾する」という質問に、「規定を変えていないのだから、外交上の問題とは切り分けている。そのうえで総理が日本国民の生命や身体を守るという観点から総合的に判断した」と文部科学大臣だか副大臣だかが説明したというけれど、それがほんとうなら、市川房枝さんに傾倒したという菅直人さんは、何を血迷ったのか。

 まあ、民主党は、責任政党というには政党の体をなさなくなってきた観があるけれど、かといって、今、噴出しているたくさんの問題を、すべてここまで悪化させて先送りしてきたのは自民党だから、まさか、そこに戻すのも最悪である。
 再編、しかないのでしょうね。
 連中に、できるかな。
 あの最低の政党群を、一度バラバラにして、まず、えらそうな二代目と、勘違いしているテレビ番組出身者を、ぜんぶ廃棄してみるところからはじめたいものです。
   
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2010年11月22日

変わる京都の商業集積/弐  ラクエ四条烏丸(下)

旧暦十月十七日 丙子(ひのえね) 小雪

 前回の続きです。長々とすみません(笑)。

 ラクエ四条烏丸オープン、に期待したのは、河原町から撤退した「丸善」がここに復活、とニュースになったからだった。
 文具のみ、とあった。
 それで充分!

 だけど、行ってみてがっくり。
 とても文具専門店、ではなかった。
 ファンシー文具、というところかな。考えてみたら、ここは「女性向け」なのです。
 それに、いかんせん、狭すぎる。かつての河原町丸善の文具フロアの奥にあった、お便りグッズと民芸文具のコーナーくらいのスペースしかない。

 ありし日の河原町丸善の文具フロアには、ほかの文具店ではなかなかみられない、機能やデザインにすぐれた文具類、はてはアウトドアグッズに近いようなものまで置いてあって、見ているだけでも面白かった。どちらかといえば、男性向けだったでしょうね。
 ラクエに開店した数坪の小規模なコーナー店舗では、品揃えに苦心するのも無理はないだろう。女性向けのレターグッズが中心、という感じだろうか。感覚的には、ひいき目に見て、ロフトや東急ハンズの文具売場のほんの一画だけ切り取った、という印象。
 これでは、わざわざ、ここに来ることはない。

 で、せめてものご祝儀に、こじゃれたマーキングクリップを買って、レジで、期待はずれだなあ、と、ぼやいたら、若い女性店員さんに「まだ、これからですから」と睨まれてしまった。
 これはオープンの記念品ですので、とおまけにつけてくれたメモ用紙は、雑誌売場の一番上に乗っている一冊みたいに、表紙がめくれあがっていた。意趣返しではないよね(笑)。

 PRの地味な「ラクエ四条烏丸」さん、施設や店舗は別段、地味なわけではないのだけれど、PRという点では、フロアガイドのリーフレットも、やっぱり印象は地味だ。(笑)
 よくあるA4サイズ三つ折り。長3の封筒に入る、あのサイズですね。
 もちろん、両面カラーで刷られているのだけれど、表紙はスミ1色。ごくシンプルに文字とロゴマークだけで仕立てている。ただし、どうやら、この面のスミは光沢のあるニス引きのようなインクを使っていて、中面の普通のスミによる黒とは違っている。さりげなく贅沢をしてある。
 だけど、それが活きていないように思える。
 ダークブラウンでまとめた裏面のほうが、地図がなければむしろ高級感がある。
 それと、PR全体に、ロゴマークとシンボルマークとの両方があるため、なんとなく使い分けに苦慮しているような感じだ。

 もやもや感は、ホームページでもそうだった。
 オープン当日、夜になってから、ホームページを検索してみたら、

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 あれ、なに?!
 店舗はオープンしていないのかな(苦笑)。

 さすがに十日経ってみてみると、一応、ひらいてはいるけれど、まだ、ちゃんと機能していないような印象を受ける。各店舗については店内写真とデータを並べた1頁だけしかない。あとは、それぞれのテナント独自のホームページに跳ぶだけ。

 さて、リアルに戻って、ビルの地下フロアに降りてみると、食品が多く、ファッションのわからないオジサンにも、少しみるものがあった(笑)。
 といっても、蜂蜜屋さんは、三条富小路の金市商店のほうがずっと専門的な印象だし、最近、やたらと増えた競合ショップと較べてどうだろう。ワインの店は店名に「やまざき」とついているのがヤマザキパンみたいで、添加物に不安をかきたてる(笑)。すみません。
 立地の良さと複合効果で、かなり勝負はできるでしょうね。

 中川政七商店、という、最近ときどき名前を耳にする、伝統工芸雑貨の店が入っていた。
 細辻伊兵衛や一澤信三郎、といったあたりのブランドイメージをねらっているのだろうか。
 入口のレジ脇に、おそらく購入者へのオープニングノベルティだろう、「京ふきん」のプレゼント、とあった。
 でも、どうも、奈良の手仕事をウリにしているショップのようですよね。
 ならば、奈良ふきん、でもなんでもいいし、奈良らしいものをノベルティにしたほうが、ショップイメージというか、コンセプトの上でも一貫性が保てるのではないかな。
 第一、京都の人間に、奈良から「京」ふきんプレゼントなんて言われても、違和感がある。

 伝統工芸のメッカのような京都で、まともに「京」と張り合うのは、それこそ「京都人」のややこしいプライドに(笑)火をつけるようなものだ。
 そのまま「奈良」を前面に出すほうが印象はいいだろう。「奈良」ブランドに自信を持って浸透させればいいのだ。平安京より古い都なのである。
 並んでいた吉野箸なんかも、なかなか魅力的である。まあ、買うなら、どうしても地元の市原商店あたりに行ってしまうでしょうけれどね。(謝)

 店の責任者っぽい、てきぱきと感じのいいきれいなおねえさんに、そんなことを喋っていたら、ここでも、白い目でみられてしまった。(笑)

 地下から通路に出られるのは、このあたりの商業ビルの便利なところだ。
 地下鉄四条駅改札前の「コトチカ」では、相変わらず、「クリスビードーナツ」に列ができていた。
 以前、大阪なんばのターミナルビルで、ベルギーワッフルの店の長い行列を見て驚いたけれど、その後たまに通ってもそんな行列は見なくなった、ここではいつまで続くのでしょう。こんなにホコリっぽい地下の人混みで、わざわざ長く並んで待つというのは、どうも群衆心理としか思えないのが、へそまがりなんでしょうねえ。

 ターミナルビルをのぞけば、京都の地下街ではおそらく初めての「地下2階」にできた商業施設? 「成城石井」をまだ見ていなかったので、これもついでにのぞいてみた。

 ここもまあ、狭いこと。(笑)
 京都の中心街では、地代と商圏人口を考えるとしかたないのでしょう。
 品出しをしていた店員さんに、
「競争相手はイカリスーパーあたり?」
と訊いたら、
「まあ、明治屋とか…」
と返ってきた。
 なるほど。価格帯はそのあたりかも。
 香辛料の棚に朝岡を探したら、マスコットとS&Bだった。
 マスコットの売値比較はしていないが、京都駅地下ポルタのジュピターと較べると、コーヒー豆なんかは1割くらい高い、といった印象だった。

 ラクエさんのフロアガイドの裏表紙の地図では、烏丸御池(烏丸姉小路)の「新風館」が、わざわざ強調してある。
 その理由は、フロアガイドの表紙をめくった中扉にポイントカードの入会案内があって、「共通カード」として勧誘してあるのですぐわかった。客層はまったく違うだろうけれど、いい試みですね。
 同じ烏丸通りで、地下鉄でひと駅離れているものの、歩いていける近場。人の流れがつながるならば理想的である。
 新風館は電電公社の跡地にできているから、あちらもNTT都市開発だったのかな。

 でも、できることなら、コトチカもココン烏丸も巻き込んで、連携してやってほしいものである。ほんとうは、ゼスト御池や、河原町ミーナ、四条河原町の阪急コトクロスビルあたりまで、いわゆる「田の字地区」で、「面」としての集客を考えればいいのにね。

 かつて阪急電車が河原町まで延伸するとき、四条通りの商店街が、客をとられるとして、地下道に商店街をひらくことに反対したというが、その結果の、ことに四条大宮方面の衰退はみごとなものだ。
 消費してくれるお客にとって、何が便利で、期待に応えるものであり、潜在需要を掘り起こすのか。
 徹底的なマーケティングがなされているようでいて、じつは、いつも、お客の立場に立って考える、ということはあまりできていないような気がしてしまう。それは、その分野でのスペシャリストではないから感じるだけのことなのだろうか。
   
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2010年11月19日

変わる京都の商業集積/壱   ラクエ四条烏丸(上)

旧暦十月十四日 癸酉(みずのととり)

 バスに乗り換えるため四条烏丸で地下鉄を降りたので、ストアデポに消耗文具を買いに寄り、あ、そうそう、と思い出して、先週オープンしたばかりの「ラクエ四条烏丸」をのぞいてみた。

 路面入口から入ってみると、意外と狭い。
 あちこち合併して、わけがわからなくなったけれど、確か、もともとは三和銀行で、かなり重厚な近代建築だった。その後、合併で何という銀行になったのだったか、取引が(笑)ないと、まったく覚えていない。すぐ西隣に、ずっと変わらず京都中央信用金庫があるのはわかっているのですけれどね。

 考えてみると、銀行にはバックヤードなんてないから、いつも、どこかの銀行に入るたびに見る、あの空間がほとんどすべての敷地面積なのだろう。
 同じ交差点の南側にある「ココン烏丸」のほうがずっと広い。あちらは、もと丸紅の社屋ビルだから、収容力が大きかったのでしょう。
 ラクエは、NTT都市開発株式会社の運営。NTTと聞いただけで、電電公社、という、かつてのお役所イメージを持ってしまうけれど、NTTさんも、こんなことまでやっているのですね。

 中に入るまでもなく、通りに面したショップを見るだけで、仕事を持ち可処分所得のある若い女性がターゲット、のイメージが強い。アラサーあたりでしょうか。そういえば、この商業ビル建設が決まったことを報せる新聞の記事などで、女性向けと明確に予告していたような気がする。たしかに、街ナカ消費の中心は、働く女性だろう。

 この「ラクエ四条烏丸」オープンの日、京都新聞の朝刊に、カラー全頁で告知広告が入っていたが、地味だった。(笑)
 あらためて見直してみた。三人の女性モデルが湖の桟橋の端っこのようなところでポーズをとっている。モデルのうち一人は日本人っぽい。二人は西洋系の顔立ちで、金髪と栗色かな。
 モデルさんが雰囲気を出しているので、ぱっと見、ヨーロピアンな印象を受けるけれど、背景はどうも大沢の池あたりではないかしら。池のまわりの木々の中途半端な枯れ具合や、向こうの山のくすんだ色から、ごく最近、いそいで撮ったような気がする。もっとも、よくみると向こう岸を一面覆っているのは蓮の葉のような…。というと春先?、だけど葉の落ちた冬枯れの木は見あたらないから、やっぱり、秋口?

 どうでもいいのだけれど、とりあえず、この地味な絵が(笑)、全頁紙面の上半部六割を占めて、入っているキャッチが

 「美人な、より道を。」

 ふうん・・・。
 ま、ま、感性的なキャッチは、人それぞれというか、クライアントが気に入ってくれればいいということで、四の五のいわずにおきましょう。

 ただ、ボディはねえ。
 ボディコピーは、アタマそろえのナリユキで、本文11行。タイトルがついている。

 「四条烏丸、ファッションの都へ。」

 なんだかなあ。
 四条烏丸がファッションの都になる、という意気込みなのだろうか。
 で、本文はつぎのように始まっていた。

 「とつぜんですが、より道、していますか。
  はりきって、新しい道を、歩くひとも。今は苦しいけど、いばらの道を、歩くひとも。
  にんげん歩くと、やっぱり疲れるから、より道が必要だと思うのです。

 このあたりで、思わず噴き出してしまった。ごめんなさい。
 あとに続く作文は中略とさせていただいて、おしまいの3行。

  こだわりのショップが、あなたの五感に語りかける、
  オトナのファッション・ランドマーク。
  あなたを美人にする、より道スポットになれたら、うれしいです。」

 じつは、出だしの3行に続く4行目に、

  そして、そのより道には元気のでる「出会い」があると、うれしい。

 と、あるから、もう一度重なる「うれしい」を、ここでは「うれしいです」としたのでしょうね。
 いやあ、みごとな、作文コピー。
 省略した、あいだの行は、もっとベタです。(笑)
 わざと、こういう素人っぽい雰囲気にしたのかな。

 新聞の全頁だから、広告代理店さんが扱っているだろうし、写真もモデル撮影の撮り下ろしだろうし、ならばコピーライターさんが入っているだろうと思うのだけれど、どうなんでしょう。
 くすんだ季節感の背景が大沢の池だとしたら、京都の代理店の仕事かな。
全頁のスペース取りは4面で右ページだったが、地元代理店でも、地元紙の左ページを押さえるということは難しいのでしょうね。
 今や新聞の経営は四苦八苦のようだし、どうせ記事もろくに読まれないのだったら、全頁広告なんかには、左ページを割高で売ればいいのに、と、いつも思う。

 抜群の立地とはいえ、そう先に消費拡大期待の持てない不況の中、たいへんな工費をかけて商業施設を新築したのだから、商圏調査は綿密に行なった上で、施設そのもののコンセプトを決めたはずだ。それをキーワードとして落とし込んだのが「美人な、より道。」ということになるのだろうけれど、何か、もやもやしますね。

 そのもやもや感は、ビルをのぞいてみて、テナント構成にもなんとなく感じられた。
 女性ファッションがメインですから、まあ、こちらにはセンスも価格も理解できないところは多いのですけれどね。(悩)
 4フロア30軒あまりの中に、ランジェリーショップが2軒も入っていて、そのひとつは、シロートのオトコには、なんだか祇園か大阪キタの新地あたりのお姉さんがた御用達といったふうにみえて、前を通るだけで、ギョッと引いてしまったけれど、烏丸オフィス街のOLさんたちは、ミニスカやパンツスーツの下にあんなのを履いているのだろうか。それとも勝負用?

 全体の不統一な印象は、なんとなく、数年でほとんどのテナントが入れ替わった「ゼスト御池」を思い出させる。まあ、ここは、通行量が圧倒的に違う強みはあるけれど。
 カフェを併設した生活雑貨のショップで訊いてみたら、出足は「かなり渋い」と苦笑していた。いい感じのお兄さん、頑張ってほしいものだ。
 ヴィンテージの家具や食器を売る店では、若者がティーカップを買っていた。一部の作家もの意外はすべてアンティークなのだそうだが、おじさんは、つい、この値段なら新品のお気に入りのほうがいいや、と思ってしまうのが貧乏性なのだろうか。(笑)

 で、このラクエさんがオープンするというので、ちょっと期待したのは、河原町から撤退した、あの「丸善」さんが復活する、とニュースになったからだった。

 いつもながらだけれど、これ以上長くなっては、また、ヒンシュクをかうこと必定なので、とりあえず、to be continued !(謝)
   
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2010年11月11日

いつかはなくなる国境?

旧暦十一月十一日 乙丑(きのとうし)

 ここのところ、マスコミは、例の尖閣諸島での漁船衝突事件での録画「流出」で、海上保安庁の職員が名乗り出た話題で持ちきりである。
 四十代のいいおじさんだから、おちゃらけてちょっとネットに流してみた、というわけではないはずだ。事前に読売新聞記者の直接取材に応じていたというから、いわゆる現代用語の「確信犯」だろう。読売新聞の記者は、いつ、どう記事にするつもりだったのか、あるいは半信半疑だったのか。
 よくサスペンス映画なんかであるように、マスコミに告発する、というのも、結構難しいものだとよくわかる。第一、今の記者さんたちの多くは不勉強だし、使命感に欠けているしね。
(※ 誤報、すみません。読売新聞ではなくて、読売テレビでした。ユーチューブに放送記者当人の話がアップされているようです。11/12)

 これから、いろいろとまた中途半端な情報が出てくるだろうけれど、罪に問う、というのは、なかなか難しいのではないだろうか。せいぜい「守秘義務違反」にあたるかどうかで、それも微罪がいいところではないか。
 だいたい「情報公開」を強く主張してきた民主党さんが、最初に「ビデオがある」なんて口にしながら隠すから、ややこしくなったのですね。
 ふつうに見せていればいいものを、変に隠すから、中国共産党政府も、見ないうちから「捏造だろう」などと反撥する。おかげで、みなさん、今、きまり悪そうではありませんか。(笑)
 あの程度の状況録画だとしたら、民主党政権の、「公開したら両国関係をこじらせる」というあの姿勢は、相手を、よほどわからずやだと馬鹿にしたものということになる。

 まあ、そんなことより、ネーミングも仕事のひとつである身としては、わざわざつけられた投稿ネーム? 「sengoku38」の、「38」の意味が気になるのですが。(笑)
 仙石さんパー、だとか、中国語で「忘八」がワンパーで、それにひっかけているとか、かの2ちゃんねるでは(!)、いろいろな説が飛び交っているようだ。

 これだけ「尖閣」が話題になってしまったおかげで、世間は、今さらのように「国境」をめぐって、「弱腰外交だ!」などと喧(かまびす)しい。
 「弱腰外交」という言い方は、その頃を見聞きして知っているわけではないけれど、太平洋戦争前にも流行った言葉らしい。まあ、第二次大戦の勃発前、どこの国でもそうだったでしょうけれど。
 日本も、日露戦争以来、国民は戦争をしたら勝つものだと思いこんでいた。続いてきた綱渡りのあやうい勝利を絶対的な国力だと信じていて、外交で引いてはならないという「世論」だか「輿論」だかが圧倒的主流だった。

 今の民主党政権の外交を言うなら、弱腰外交というより、ただの「無策外交」にすぎないでしょう。
 もともと意見がばらばらの党内が、政権を取ったときに、どう内閣を支えて、支持の拡大と政権安定に寄与していくかなど考えてもいなかっただろうから、みんな思いつきで言いたいことを言っているだけである。
 スタンスが定まっていない、つまり、基本的な大局観を確立していなかった、ということはもとより、執政のための「学習」が追いついていない、という印象しかない。

 日本の財政の、先進国最大の借金も、中途半端にしてきた国境問題も、世界貿易における開国対策も、ま、もともとは、すべてここまでの自民党政権がツケをまわしてきたといえばそれまでではあるけれど、それを解決していく期待によって「チェンジ」となったのは、オバマさんと同じなのだから、やっぱり「なんとかして」くれなければねということになるでしょう。

 尖閣! が、ぶり返して、みんなもう忘れてしまったけれど、じつは、北方四島にメドベージェフ君が訪れたということのほうが気になっている。
 尖閣や竹島は、近々でみればだいたいどちらに分があるか、みたいな歴史的検証もある程度できるものの、もうちょっとさかのぼれば、といった微妙なところもあり、中国共産党政府も韓国政府も、現実には、お互いに一線を越えない、といったぎりぎりのところで踏みとどまっている。

 ところが、ロシアのメド君は、そういった、隣どうしの日頃のつきあいを越えて、いともたやすく、離れ座敷に土足で踏み込んだ。
 日本政府が南に気をとられているスキを突いた、なんて、もっともらしいことが言われているけれど、そうだとしたら、まさに火事場泥棒のようなものですね。

 中国や朝鮮とは、ちょっと近親憎悪みたいなところもあって、ほんとうはもっと早くなんとかなっていたはずなのに、過去の自民党政府や愚かな政治家たちが、侵略はしていないだとか、従軍慰安婦も強制連行もでっちあげだとか、まあ、どうしようもないくだらない主張をして、無意味な波風を立ててきた。今度の尖閣問題での、中国各地でのデモも、あの田母神さんが、わざわざ中国大使館に抗議デモを組織して刺激したことに端を発している。
 だけど、ロシア政府とは、ちょっと立場やいきさつが違うだろう。

 長くなるので検証までしないけれど、日露戦争のころは、太平洋戦争のときみたいに、国民を道連れに花と散って陛下のために死のう、なんていう軍人や政治家はほとんどいなかったらしくて、冷静に、ここで戦争をやめたほうがトクだ、と、ポーツマス条約で、要領よく講和している。
 これはアメリカに仲介させている。
 このときに、「樺太」の半分まで「永久に」日本の領土とした。

 で、時代は下って、ロシアはソビエト連邦となり、アメリカとの戦争を視野に入れていた日本は1941年の4月に「日ソ中立条約」を結んだ。
 これは5年間有効だけれど、満期の1年前に通告すれば破棄できる。借家の契約解消での通知が何カ月前でしたっけ、あれと似たようなものですね。
 だから、「契約」が切れるのは1946年のはずだけれど、日本の同盟国ドイツと戦い、ドイツを共通の敵とするアメリカやイギリスと裏取引をしたスターリンは、敗色濃厚な日本の戦後処理を密約して、4月には日本へ条約破棄を通告した
 そして、8月9日、ちょうど「ナガサキ」原爆投下の日ですね。おそらくそれも知っていたのだろう。破棄を通告しても条約は翌年の4月までの期限を残していたはずだけれど、対日本戦を開始した。足もとをみて弱みにつけ込むことと強硬戦略は、スターリンの得意技だろう。
 ソ連との「国境」を守っていた、関東軍と呼ばれた満州の日本軍は、入植させていた自国民など見殺しどころか捨て駒にして、総崩れで逃げ出した。「中国残留孤児」は、このとき生まれた。
 逃げ遅れた日本の兵隊さんは捕まって「シベリア抑留」され、多くの人が死んだ。今でいう捕虜虐待だけれど、戦後の日本政府は、自分たちが中国や朝鮮でしてきたことへの後ろめたさもあり、補償を放棄した。

 スターリンは、北海道まで欲しがったらしいけれど、アメリカが突っぱねた。だけど、ポーツマス条約で「永久に」とうたわれたカラフトどころか、歯舞、色丹にいたるまで、全部払い下げしたのは、ソ連と結んだアメリカである。

 いわゆる北方四島については、日本の敗戦で、暮らしていた土地から追われた人たちがまだたくさんいて、帰りたいと願っている。
 メドベージェフ君はニッサンの四駆だかで国後島を走り回って、嬉しそうにツイッターでふれまわっていたようだ。中国人民軍の強硬派や、ニッポンの田母神さんあたりでも、あれに較べたら、品があるようにさえ見える。

 プーチンの腰巾着といわれ、ずっとサポーターとして支えてきた功績で大統領にまでしてもらったメド君は、プーチンと同郷で、地縁つながりの派閥があるらしい。
 プーチンはKGB出身。日本でたとえれば、戦時中の特高警察の幹部が総理大臣になったようなものである。メドベージェフとKGBの関係はどうなのだろう。
 政敵の企業を国家権力で奪い取り、原子力潜水艦の沈没事故では、テレビカメラの眼前で、抗議する遺族に後ろから注射を打ち、世界の誰もがあきらかに誰のせいか理解したリトヴィネンコ殺害ではシラを切る、といった姿勢を堂々と通してきたプーチンにみるロシアのスターリニズムには、迷いというものがない。

 今、日本では「弱腰外交」などと、みんな雰囲気に乗りたがっているけれど、どうせ三ヶ月も経てば忘れてしまう。
 三歩歩いてさっきのことを忘れるといわれる、ニワトリみたいなものだ。
 尖閣諸島だって、今でも、どこにあるのか知らずに言っている人も多いのではないだろうか。まして、歴史なんて知ったこっちゃない?
 「世論」とは、どうせ、そんなものである。

 中学校や高校の、社会科の副読本だった世界史地図でも見てみるとよくわかるけれど、百年、二百年経てば、国境なんか大きく変わっていた。
 もう、国境線をめぐって、そんな野蛮なことをやっている時代ではない。

 国会も、国民のウップンばらしを利用するような「論戦」は、そろそろいいかげんにしてほしいし、ウケていると錯覚している小泉ジュニアばかり、カメラの前で質問させるのも、まあ、ほどほどにして、もう少し、国民の理性や知性にも、敬意をはらってほしいものである。
   
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2010年10月21日

「秋の土用」に入った。

旧暦九月十四日 甲辰(きのえたつ)

 さすがに朝晩冷え込むようになってきて、いつまでたっても「残暑」の日々に躊躇していた衣替えを、あわてて始めなければならなくなった。
 そりゃそうですね。中秋の名月からほぼひと月が過ぎ、昨夜はもう、十三夜だった。

 旧暦八月十五日、つまり十五夜の月が「中秋の名月」であり、翌九月十三日には「十三夜」の月を愛でる。
 前にも少しふれました(http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/archives/20091113-1.html)。
 中秋の名月は、「中秋節」の中国から伝わり、韓国でも「嘉俳(カベ)」と呼んで重要な節日となっているらしいけれど、「十三夜」は、花鳥風月の日本ならではの風習で、中国にも韓国にもないようだ。

 で、中秋の名月、すなわち十五夜の月を賞したならば、十三夜の月見を欠かすことはできない、という暗黙のルールがある。これを破って、どちらかの宵の月だけしか観ないと、「片見月」といって嫌われる。ペナルティはないようですが(笑)、何らかの意味づけで、縁起がよくない、ということなのでしょうね。
 でも、今年の十五夜は、京都ではたしかお天気がよくなくて、月はほとんど出なかったし、きのうの十三夜も曇ってしまった。結局、どちらも月を観ることができなかったので、天のはからいか、片見月にはならずにすんだ。
 いやいや、風流というのは、御しがたく、奥深いものです。

 そしてまた、昨日は、十三夜であると同時に、秋の土用の入りだった。
 「土用」は、夏の土用だけ「鰻を食べる」土用の丑で知られていて、夏のものだというようなイメージがあるが、じつは四季それぞれにある。

 近年はやりの陰陽道、何年か前に安倍晴明さん人気で、京都の晴明神社が一気にメジャーになったけれど、その陰陽道のルーツ、五行説によると、この世のすべては「木火土金水」の五気によって生成されている。で、四つの季節に、この五つの「元素」をあてはめようとすると、ごくあたりまえにひとつ余ってしまう。だもので、立春や立秋などの、それぞれの季節に入る前、それぞれ十八日を「土」に分配して、つじつまをあわせた。

 五行説では、五行配当表というのがあって、五行すなわち五気に、色や方角、季節、星、味覚、感覚、内臓(五臓)から、声といったものまで振り分けてある。
 季節でいえば、木に春、火に夏、金に秋、水に冬となって、土に土用である。
 色では、木に青、火に赤(紅、朱)、金に白、水に黒(玄)、土に黄、となっていて、これがつながって春は青春、夏は朱夏、秋は白秋、冬は玄冬と異称で呼ばれる。

 それにしても、この五色など、赤・青・黄は色の三原色、印刷物でよく言うマゼンタ、ブルー、イエローであり、黒が加わって、四色刷のカラー印刷のベースそのものだ。
 つまり、色の三原色と、それらをあわせてできる黒。そしてまた、黄を緑に置き換えれば、光の三原色となって、あわせると、白となる。これが、ちゃんとそろっている。
 微妙なところはあるけれど、はるか古代に、ちゃんと頭の中で分色、分光していたのはすごいな、と思う。

 話を土用に戻せば、かつて専業主婦から民俗学者となり、ことに陰陽五行に関して多くの著作を残した、故・吉野裕子さんは、「この土用こそ、中国思想の真髄を一年の経過の中に、具体的に示しているものとして私にはとらえられる」として、次のように説明している。

(前略)冬は唐突に春になるのではなく、春もまた直ちに夏に移るのではない。各季節の間には、そのいずれにも属さない中間の季(とき)がある。それが各季節の季(すえ)におかれた、十八日間の土用である。(中略)土気の作用の特色はその両義性にある。つまり土気は一方において万物を土に還す死滅作用と、同時に他方においては、万物を育みそだてる育成作用の二種の働きをもつ。そこで一年の推移においても、各季の中間におかれた土気は、過ぎ去るべき季節を殺し、生れるべき季節を育む。それによって一年は順当に推移する。(『陰陽五行と日本の民族』人文書院)

 うむむ。中国共産党政府のみなさんにも振り返っていただきたい、五千年の文化の根源ですね。

 そういった、重要な期間なので、本来、いろいろと制約もあった。

 土用の期間中は、土公神(どくじん)なる神様が支配するといわれた。土公神は陰陽道で、土をつかさどる神とされた。古い暦注書には「土を犯し殺生を忌む」とある。(略)葬送があっても、この期間中は延期された。また、土を動かすこと、つまりは造作、かまどなどの修造、柱立、礎を置くこと、井戸掘り、壁塗りなどいっさいが凶とされた。
 (略)土用は春夏秋冬の四回あり、合計七三日にも及ぶ。この土用の期間中、いっさい土を動かすことができないとなれば、非常に不便である。特に「秋には土公が井戸にあり」と言われていたので、秋の土用は井戸掘りや井戸替えが厳禁されていた。これでは不便この上ないし、それを生業としている人々もあがったりだ。そこで土用にも間日(まび)というものを設けた。この日には、文殊菩薩のはからいで、土公神一族すべてが清涼山に集められるので、土を動かしても祟りがないということにした。(『現代こよみ読み解き事典』柏書房)

 この「間日」は、四季それぞれ順番に十二支の日があてられ、秋の土用では「未(ひつじ)・酉(とり)・亥(い)」の日となっていて、四日に一回やってくる。
 わざわざ難しくしておいて、また、ラクにする言い訳を考える、という思考システムは、古代思想を推し量る際のポイントのような気がするけれど、文殊菩薩さんをひっぱりだして、間日をつくったあたりは、なんとなく日本に伝わってから(笑)のような気がしますね。

 せっかくだから、秋の土用にも、夏の土用の丑のような、特異日ならぬ「特食い日」をつくったらいいと思うのだけれど。
 冬、春にもつくって、四季そろえば、また相乗効果がありそうな気がする。

 今頃であれば、鍋の日、あたりかと思ったけれど、鍋の日はちゃんとあって、11月7日だという。11・7で「いいなべ」と読むのだそうだ。ふむふむ。
 まあ、たいていの「○○の日」は、こんな、少々ムリのある語呂合わせをするだけだから、ほとんど盛り上がらない。
 土用の丑、は、なんとなく、陰陽五行的というか、意味ありげな特定の日を指定しているから、どこか乗りやすいのである。
 「節分の日」に「その年の恵方」を向いてまるかじり、といった巻寿司の販促もそうだけれど、「なぜこの日なのか」という設定に、ただの語呂合わせではない意味づけ、ストーリーが必要なのだ。どうせ語呂合わせ、と思われてしまっては、ただの役所のキャンペーンと大差ないイメージとなってしまう。
 だから、鍋であっても、何の、どんな鍋、といった細目が決まっていて、説得力のある裏づけがなければだめでしょうね。

 土用の丑に鰻、をブレイクさせたといわれる平賀源内から、ざっと二百五十年。
 みなさん、秋の土用も、冬の土用もありますよ。
   
ラベル:五行 土用
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2010年10月14日

孫の日と、消えたお年寄り。

旧暦九月七日 丁酉(ひのととり)

 この週末にやってくる日曜日、17日は「孫の日」なのだそうだ。
百貨店協会が制定したらしい。
 可愛いマゴのために、じいちゃん、ばあちゃんに、いっぱい買い物をしてもらいましょう、というキャンペーン。
 迷惑でしょうね(笑)。

 10月の第三日曜日を充てるらしい。
 なぜ10月の第三日曜日かというと、9月の第三月曜日が敬老の日で、その一ヶ月後になるので、このあたりがちょうどいい、ということになったようだ。
 バレンタインデーの一ヶ月後にホワイトデー、のノリというわけですね。
 もともと「敬老の日」は9月15日だったけれど、休みはなるべくまとめて連休にして、なんとか消費に結びつけていこうという「ハッピーマンデー制度」によって、いつのまにか第三月曜日ということになった。

 ハッピーマンデー制度以来、祝祭日はぐちゃぐちゃになってしまった。「敬老の日」が決まった期日でなくなったことには、高齢者の関連する団体から抗議が相次いだという。それで、9月15日を「老人の日」ということにして、続く一週間を「老人週間」にした。いや、知らなかったなあ(驚)。
 ウィキペディアで「敬老の日」を引くと、もともとこの日がつくられた経緯も説明されている。おそらく、おおむね正しいでしょう。

 「孫の日」はもちろん、国民休日ではない。百貨店協会がねらっている、この日のコンセプトは、「小皇帝の日」といったところでしょう。
 マーケティングとしては正論というか、いいところをついた発想で、心理的にもツボにはまっている。だけど、「母の日」や「父の日」、あるいは「敬老の日」などと較べて、商売人が最近つくったものだから、というだけでなく、なんとなく違和感を感じるのは、「孫」には、特別な日に報いられるべき、ふだんの苦労や日常の努力があるわけではなくて、祝ってあげる人のほうが、むしろ報いられるべき存在だから、だろう。

 つまり、どこかに、本末転倒?! という潜在的な抵抗意識がはたらくのだ。
 シックスポケット、といわれる、小皇帝、小皇后に、そこまでしてあげなくても、ふだんから、毎日が孫の日みたいなものじゃないの? といったシニカルな疑問が、ついかすめてしまう。

 そういえば、老人の日も、敬老の日も、老人週間も、盛り上がってはいなかった。孫の日、と言われて、そうか、そっちもあったはずだな、という印象である。
 人口は、圧倒的に「孫」より多いはずだから、本当はむしろ、ここでのマーケティングをうまくやって、その「先進的な」サービスや商品の開発を、後に続く世界の高齢化社会に輸出しなくてはね。


 以前、まだ社会人になって間もないころだっただろうか、バスに乗っていて、その車内は、そこそこ混んでいた。
 今でもときどき遭遇するけれど、京都市バスの運転は少々荒っぽいことが多くて、よく揺れた。
 すぐ向こうにおばあちゃんがいて、ぐい、とバスがハンドルを切ったときに、よろけた。 すると、よろけた先にいた、まだ高校生くらいだっただろうか、若い女の子は、おばあちゃんを支えると思いきや、すっと、よけた。
 そのまた手前にいたこっちは、あわてて倒れてきたおばあちゃんを受けとめて、おばあちゃんは、かろうじて妙な転け方をしないですんだ。
 そしておまけに、おばあちゃんをよけた女の子は、席が空いたとたん、おばあちゃんを尻目にさっさとそこに座った。

 うーん、温厚な青年としても(笑)、怒り心頭。
 幸いなことに、その時、鼻がむずむずとしてきた。
 ちょうど、立っている位置は、年寄りを目の前において座っているその女の子の席の真横。いつもと違って、口をふさいだり、うつむいてよけたりしないで、頭上から思いきりくしゃみをした。
 嫌な顔をして見上げたので、思いきりにらみつけてやった。
 悪いお兄さんですねえ(笑)。

 でも、今となってはいくらか反省もしている。
 その子ももちろんよくないけれど、常識のない子を育てた親が悪いのだと思う。年寄りをいたわったり、敬意をはらうという習慣が、身のまわりにないのだ。
 ならば、誰といわず、みんなが、ちゃんと教えてあげなければいけない。

 停留所で待っていてバスが到着したときなど、年寄りが乗ろうとしているのに、先に乗り込もうとする若者はよくいる。だけど、ちょっとひきとめて、年寄りのほうに視線をおくると、たいてい、すぐに理解して、すみません、といった照れた表情をみせるものだ。
 ふだんの暮らしで、社会における気配りの習慣が身についていないだけなのである。

 核家族の時代。きっと、その女の子も、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に暮らした経験がなかったのでしょう。孫の日など、縁遠かったのだ。
 いやー、あたまから大雨でごめんね。God bless you!(笑)

 ついしばらく前、「消えたお年寄り」が話題になった。
 百歳以上の高齢者で、戸籍上生存していることになっているのに行方不明の人が、なんと23万人を超えた、という。
 これは、とんでもない数字でしょう。
 百五十歳を超える老人が「生きて」いたり、という、笑い話のような「書類上の事実」が次々と伝えられた。
 年金の不正受給のような犯罪がらみの問題もあったようだけれど、それ以前の、何か、今の世の中の、高齢者に対する扱いを象徴しているようで、愕然とした。

 いてもいなくてもいい、社会がそう言っているような悲しい気持になった。
 しばらくマスコミが競って取り上げたあと、話題にも上らなくなった。
 行政機関は、たいして事実関係を確かめもせずに、簡単に「除籍」かなんかしたみたいだけれど、中には犯罪被害だってあり得るだろう。
 ほかのことではなかなか自分たちの間違いを認めないくせに、このことについては、あっさりと「書類上のミス」を認めて戸籍を書き換えた、なんて、あきれてものも言えない。

 無責任なマスコミには続報もなく、行政機関に確かめに行ったわけでもないので、何を基準に「戸籍の書き換え」をいとも簡単にしたのか、結果がどうなっているのかがわからないけれど、もし「百歳」を基準に、それ以上の年齢で居住確認できない人を単純に抹消したのだとしたら、その百歳の基準は、どういう理由なのだろう。
 やがて面倒だからと、六十歳以上が整理されたり、極端にいえば、二十歳以上だって、簡単に削除されることが、なくはないことになる。あとから本人が生きているとわかれば、どうなるのか。

 孫の日の前日となるあさって16日は、旧暦の九月九日で、重陽の節供だ。
 長命を寿ぐ日でもある。
 長生きするということは、古来、人々の最大の願いだった。吉祥文様の多くは、不老長寿を象徴する。鶴亀や松竹梅は代表選手。重陽の節供に菊酒を飲むのも、邪気を祓って長命を願うためだ。( http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/127694780.html

 一方、子孫繁栄もまた、かつては切実な願いだった。子どもは産まれてすぐに死ぬことが多く、育つだけでもたいへんだったし、子だくさんは一族の繁栄につながった。だから、葡萄唐草が吉祥文様だったりする。
 小皇帝や孫の日なんて、とても言っていられなかった。


 子だくさん、が可能な時代になると、誰も子だくさんを目指さなくなった。
 孫にプレゼントをしたい、というのは、つくられた「孫の日」にのせられて、というよりも、可愛い孫に何かあげたくてしかたないジジババのために、お正月やお誕生日、新学期といった従来の特定日に加えて、さらに機会を与えてくれる、というポジティブな受け止め方をしなければいけないのでしょう(笑)。

 で、おそらく、この日の前後に市場調査が行なわれることだろう。
 そのとき、調査対象となる高齢者を広くとれば、こういう「記念日」に積極的・消極的、あるいは肯定・否定といった統計は、ひょっとしたら、めぐまれているお年寄りと、そうでないお年寄りの、分布や比率を知る手がかりになるかもしれない。
   
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2010年10月08日

寒露、甘露。

旧暦九月一日 辛卯(かのとう) 寒露(かんろ)

 旧暦では、ようやく九月に入りました。
 お朔日(ついたち)は、二十四節気の「寒露」にあたる。

 例によって『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)によると、「寒露とは、晩夏から初秋にかけて野草に宿る冷たい露のことをさし、秋の深まりを思わせる。」とある。国語辞典や漢和辞典でも、ほぼ同じ説明。
 まだ、衣替えにウロウロしているけれど、そろそろ秋深し、なのですね。

 「寒露」という言葉を、かつて、「甘露」とごちゃまぜにしてしまっていた。
 おお、寒露ぢゃ、甘露ぢゃ。なんて。
 なにごとも、ちゃんと辞書を引いたり、確かめないといけませんね(恥)。

 でも、そろそろ食欲の秋、寒露というと、ついつい、なんとなく「甘露」をイメージしてしまう。
 「甘露」とは、もともと「不老不死の妙薬」らしい。

@天から与えられる甘い不老不死の霊薬。中国古来の伝説では、天子が仁政を行なうめでたい前兆として天から降るという。(『国語大辞典』小学館)

@甘い(おいしい)つゆ。天子が善政を敷き、天下が太平になると、天が降らせるという。〔老子、三十二〕(『大漢語林』大修館書店)

 おお、さすが古代中国の発想ですね。
 まあ、でも、今の中国にも、日本にも、甘露が降ってはきそうにないけれど。

「甘露」には、ほかにも、おいしい、美味であるとか、いろいろ派生的と思われる語意があるけれど、源流としての意味がもうひとつある。

A(梵amrtaの訳語。阿蜜■〔口へんに栗〕多と音訳。不死、神酒などとも訳す)インドで天の神々が不死を得るための飲料をいう。転じて、仏の教え、仏の悟りなどにたとえる。(『国語大辞典』小学館)

A(仏)梵語amrtaの訳語。不死・天酒とも訳す。トウ利天の甘い霊液で、よく苦悩をいやし、長寿を保たせ、死者をも復活させるという。仏法にたとえる。「甘露法雨」(『大漢語林』大修館書店)

※ amrtaの r は、文字の下に .がつきます。「トウ利天」のトウは、りっしんべんに刀。
どちらもデジタルフォントでは出ません。


 おそらく、漢語のほうが先にあって、伝来した仏典の訳語を合わせ易かったのでしょうね。
 こういう寿福を語る前向きな言葉は、何かと転用がしやすい(笑)。
 だもので、日本の、食欲の秋には、いっぱい「甘露」の形容が広がった。
 甘露酒、甘露醤油、甘露水、甘露漬、甘露煮、甘露梅……。 これらは、『大漢語林』にはない言葉。
 いやいや、食べものに美学を求める日本人の習性がしみじみわかります(笑)。

 で、国語辞典に無くて、漢語辞典に有った、甘露の派生語は、「甘露門」。
 「(仏)涅槃に至る門戸。如来の教え。(智度論)」とある。本義の流れですね。
 あまり出てこないところをみると、、中国では、食い物に、安易に不老不死の形容を与えてはいないようだ。

 でも、こうしてみると、「寒露」も、もう少し応用できそうな気がする。
 世界が魅力を感じている「和」の時代です。
 原典は中国だけれど、いいのだ(笑)。
 秋深まって野草に宿る、清冽な露は、ピュアなイメージ、ひいてはエコなイメージまでネーミングとしてつなぐことができそうです。
 あと一週間ばかりすれば、旧暦の九月九日、重陽の節供だけれど、前夜から菊に「着せ綿」をして含ませる露も、この時期だから、やはり「寒露」の一種でしょう。
 そして、これも長寿をもたらすのだから「甘露」に通じる。

 「甘露醤油」というのは知らなかった。
 「塩水の代わりに濃口醤油を使って仕込んだ濃厚な味の醤油」とあるから、刺身醤油のようなイメージなのだろうか。

 醤油あるいはそれに類する調味料は、地域の文化の象徴のように思えますね。
 出雲で始めてそばを食べたときには、あきらかに醤油の違いを感じたし(飯塚そばが店を閉めたらしいのは、じつに残念!)、時間とお金があれば、各地の醤油をなめ歩きたいと思ったものだった。

 かつてサルトルやヘッセの著作集を出していた、京都の人文書院という出版社の、たしか元編集長だと思うのだけれど、松本章男さんというかたが、『京都で食べる京都に生きる』(新潮社)という本の中で、京都の食に関する原稿を書いた時に、東京の編集者が、何度「淡口(うすくち)醤油」と書いても、「薄口醤油」と直してきた、と嘆いておられた。
 京都に関する東京モン(笑)エディターの間違いだらけについては、いずれ特集を組みたい(笑)けれど、「薄口」の醤油は典型的な例である。

 まあ、でも、東京の、コロッケまでのっけてしまう、なんでもありの、「東京」醤油で真っ黒なそばも、それはそれで懐かしい。
 うーん、神田のやぶそばで天たねが食いたい!
 久しぶりに、東京の仕事、こないかな(笑)。
   
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2010年09月25日

中秋節も過ぎて。

旧暦八月十八日 戊寅(つちのえとら) 社日(しゃにち)

 おとといが彼岸の中日、秋分で、十六夜で、月齢では14.7の満月だった。
 その前日、さきおとといが、暦の上では十五夜。中秋の名月だったけれど、なんだか、あまり盛り上がらなかった。残念ながら京都では雨模様、どこも、お天気の悪いところが多かったようです。
 あしたは彼岸の明けですね。

 きょうは「社日(しゃにち)」。
 なにげなく、こういう日があるな、と思っていたけれど、あまり目立たない「雑節」である。
 節分、彼岸、社日、ときて、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日と並ぶ九つの節目が、基本的な「雑節」らしい。彼岸と社日だけは、春と秋に二回やってくる。
 おそらく、いちばん知名度の低い(笑)のが、社日。

 年に二回の社日は、春分と秋分に最も近い戊(つちのえ)の日にあてるそうだ。(『現代こよみ読み解き事典』柏書房)
 『大漢語林』(大修館書店)では、「立春または立秋後の五番目の戊の日」とあった。微妙な定義。おそらく、結果は同じということになるのかもしれないけれど、前書には、「(春分、秋分に)前後同日数の場合には、前の方の戊の日を社日とする」とあるので、やっぱり微妙、ですね。
 時間のあるかたは、一度ゆっくりチェックしてみてください。(笑)

 「この日、産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈り、秋は収穫のお礼参りをする」と『〜事典』にあり、「この日、土地の神を祭り豊作を祈る。春を春社、秋を秋社という」と『大漢語林』にある。国語辞典でも、だいたい似たような説明がされている。

 「社」は、同じく漢和辞典でみると「土地の神」また、それをまつる「やしろ」「ほこら」とある。お宮さん、神社ですね。
 あらためて漢和辞典をみていると、面白い。解字では、「社」の字のつくりにあたる「土」に、もともと「農民が共同で祭る農耕地の神の意味」があったと説明されている。
 さらに、「社会(會)」という言葉をみると、第一義に「昔、社日に催した同集落の住民の会合」とあり、次に「同集落の住民が生活向上のために作った組合。昔は、二十五家で一つの社を作った」とある。
 で、そこから、明治八年に東京日日新聞で福地源一郎という人が、societyの訳語としての「社会」という言葉を初めて使ったらしい。
 ふむふむ、漢和辞典も、結構、楽しめる読み物です。

 「社日」は、神さん由来、だけれど、「彼岸」のほうは、仏さん由来、である。
 仏教では「彼岸会」として法会が行なわれる。これは、日本仏教に独特のものだそうだ。
 日本の仏教に独特の行事や風習は多いけれど、最たるものは妻帯でしょう。僧侶の息子が寺を継ぐ、というのは、世界の仏教徒にとっては、たいへんな違和感があるはずで、もともと僧侶に妻帯を認めていないから、当然、子どもはいない。世襲は不可能なのだ。

 どの世界でも、戒律をちゃんと守る、といった奇特な人はまれなもので、もともと仏教の教えでは、肉食も飲酒も認めていないはずだけれど、お酒を「般若湯」などと、みごとなネーミングで読み替えて、日々、智恵と悟りを得ている坊さんは多い(笑)。
 もっとも、そのおかげで、社用族 (おっと、死語になりかけていそうですね) 激減の中でも、祇園や花見小路の夜の灯りは、かろうじて保たれてきた。

 ま、ま、それはともかく、社日も彼岸会も、漢字の母国、中国にはない行事とは、言われてみれば、という感じだけれど、「中秋の名月」は、日中ともにある。
 もともと、唐様の文化が日本の王朝に伝わり、風雅な月見の宴を楽しむようになったけれど、今では、下々の間では、家に縁側もなく、ススキも見かけず、都会では高層マンションで月も見えず、で、せいぜい月見団子を買ってくるのが関の山となった。
 それも、ちかごろでは、スーパーのチラシにも、中秋や月見の文字はなく、饅頭屋さん、餅屋さんが、共同でこの日にチラシを入れるくらいである。節分の巻き寿司は派手になってきたが、中秋の名月は気にもしていないのだろうか。うまく販促すれば、いろんなものを売れるのにね。

 「中秋の名月」は、中国では「中秋節」。かなり重要な節日らしい。
 この夜のまるく満ちた月を「端正月」と呼び、一家が団円、全員が欠けることなく集まることを願って月餅を食べるのだそうだ。

 なので、このあいだの尖閣諸島の事件で逮捕された中国漁船の船長を、どうせ釈放するなら、中秋節の前に帰してあげればよかったのだと、誰かがテレビで言っていた。
 一方、逮捕直後に亡くなった、彼の祖母だかの葬儀だか法要だかが一両日中にあるので、それに間に合うようにした、との説も流れていた。
 いずれにしても、そういうタイミングと符合するのなら、日本政府がそこをみはからって釈放したのでなくても、それを、人道上の理由として前面に出せばよかっただろう。それがプロパガンダというものだ。

 沖縄地検の独自判断なんて、誰も信じないし、だから地検がたたかれていないのであって、ほんとうに地検が「日中関係を考慮して」釈放したのなら、違った意味で大問題になる。国際関係は地検ごときが関与できる案件でもなんでもない。

 それにしても、幼稚きわまりない対応の続く民主党内閣。
 海上で追跡して逮捕する、という時点で、政府の誰と連絡をとりながら、「逮捕、連行」を決めたのか。
 その時点で、のちのちの対応は決まっていなければならない。逮捕して、中国共産党政府が黙っているわけはないし、逮捕する際に、ひょっとしたらけが人や、死者まで出る可能性だってあったはずである。海上保安庁の映像は、ときどきテレビで流されることがあるが、船から船へ跳び移る、あの行為は命がけである。おそらく、逮捕決行を命じた政府閣僚は、東京にいて、案外、軽い気持でゴーサインを出したのだろう。

 普天間、消費税、そして尖閣、課題が明確になることは悪くないのだが、次々と寝た子を起こしては後始末のできない民主党内閣は、またまた無能よばわりされるだろう。そのことより、むしろ、そういった失点を取り戻そうとする焦りのほうが危険だ。

 領土問題というのは、国民同士、もっとも論理性を欠いて感情的になりやすい問題である。だから、国民に不満がある政府ほど、求心力として利用しやすい。
 ナショナリズムをあおりたがる連中は、いつの時代でもいる。ボスニア・ヘルツェゴビナの悲劇は記憶に新しい。
 中国でも、日本でも、マスコミが騒いで(実質的にはあおって)いるほど、感情が悪化しているわけではなさそうだ。街の声には、意外なほど冷静なものもある。反日感情が高まっている、と盛り上げたがる日本のマスコミ、ことにテレビ、そして、統制された中国のマスコミは、戦前の日本の新聞と似たようなものなのかもしれない。

 両方の国民は、ビジネスや留学で行ったり来たりしている人ほど、お互いがうまくいけばいいと思っているだろう。
 中国共産党の中では、今も権力争いが熾烈なようだ。向こうでいう「保守派」の攻撃で温家宝さんも日本には強気に出るしかない。領土問題は、権力者にとって最大の踏み絵だ。しかも、一党独裁政権。最も譲れない一線なのである。
 読み誤って、逮捕! を指示した政治家は、戦争も辞さないつもりでいたのかどうか。レアアースで日本の息の根をとめる、なんて、太平洋戦争前の石油と同じでしょう。前哨戦としての経済戦争である。相手政府の行動予測もできないで、何をかいわんや、である。

 いずれにしても、あんなに大きな国で、共産党独裁があと百年も続くわけはないし、領土問題なんて十年二十年で解決するものでもない。やがて民主化されれば、交渉もまっとうなものになる。理想をいえば、いつか国境など取り沙汰しなくてもいいような、世界の一体感が形成されれば、紛争は消える。
 満月は、どこの国も同じように照らすのだ。
   
ラベル:社日 中秋節 尖閣
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2010年09月13日

ナースウォッチと医療ツーリズム

旧暦八月六日 丙寅(ひのえとら)

 看護婦さんが腕時計をしている病院は気をつけたほうがいい。

 そんな話を、かつて聞いたことがある。

 なぜかというと、腕時計をはめていると、手首までちゃんと洗えないからだそうだ。
 医師や看護師は、数多くの患者と接触する。それぞれ違う疾病を持ち、違う病原菌を持っている。それを別の患者に感染させてはいけないから、手の消毒はこまめにする。そのとき、指の間や爪の隙間とともに、手首までちゃんと洗わなければいけない。インフルエンザのときにも言われていましたね。病院でも、家庭でも、手洗いの基本。
 腕時計をはめたままだと、当然、そちらの手首は洗えない。
 いちいちはずして洗うのは面倒だから、つい、おろそかになる。
 つまり、基本的なことができていない可能性が高い。

 と、いうわけである。
 だから、ナースウォッチと呼ばれる時計は、ベルトなんかに下げるようにつくられていて、文字盤が上下逆さに向き、ぱっ、と見やすいようになっている。
 とはいえ、気をつけて見ていないせいもあるのか、病院に行ってナース・ウオッチを見た記憶、って、まったくないけれど。(笑)
 腕時計を白衣のポケットに入れていて、脈を読むときなんかに、取り出して見ている看護婦さんは、時折、見かけますね。

 帝京大学付属病院のみなさんは、どうだったのだろう。

 「多剤耐性アシネトバクター菌」などという、舌をかみそうな名前の悪性の細菌が院内に広がりながら、気にしていなかったのか、隠していたのか。1年前から菌を検出し、去年の11月に1人亡くなっているというのに、年を越したこの9月になっての発表だから、おそらく内部告発があって、調査が入ったか、その情報がもれたか、そのあたりで、急遽、記者会見をひらいたのでしょうね。
 3日に最初の発表をしたあと、患者数も、死者も、なしくずしに増えていって、9月11日には、ついに感染者58人、因果関係が未確定ながら、死者がなんと33人。記者会見の時点で、ちゃんとした内部での事実確認も、対外的な体制もできていなかったこと、そのあわてぶりがわかる。
 感染対策をになう感染制御部という部門の名前が出ていたので、ちゃんと組織はつくられていたのにどうして、と思っていたら、感染がどんどん広がってしまった今年の5月になって、はじめて専属の担当者をおいたのだそうだ。まさに付け焼き刃。

 帝京大といえば、どうしても、あの薬害エイズ事件で逮捕された、安部英副学長の名前を思い出す。ウィキペディアでたどると、あの安部センセイは、その後一審で無罪、検察控訴ののち認知症を発症して公判停止となり、2005年に亡くなっている。

 今回の耐性菌では、帝京大も、わかっていて転院させるなど、じつに大雑把だったけれど、その後、東京都の健康長寿医療センターというところでも、感染患者を大部屋? に入れておいたのか、接触者がなんと60人近い数にのぼっていたり、別の緑膿菌という多剤耐性菌で10人が亡くなっていることなどが報じられた。
 集中治療室(CPU)で相部屋だった、なんて、そりゃ、確実に感染して死ぬでしょう。もし、わかっていてそうしたのなら、未必の故意による殺人ともいえるのではないか。

 企業に較べるとずっと少ないけれど、病院についても、これまでに、仕事で案内冊子を何度かつくってきたことがある。幸い、ちゃんとした病院だった。今までのところ(笑)。
 時代によって、少しずつ表現の方法は変わってきたが、おそらく、今であれば、

 「わたしたちの病棟に、腕時計をはめた看護師は一人もいません」

という見出しで、病院のCSRが語れるでしょうね。

 それをあたりまえに実行している病院では、おそらく、それがアピールできるひとつのポイントだとは思わないだろう。
 だけど、ほんとうのCSRとは、そういったところにあると思う。
 ごくあたりまえのセオリーが、ちゃんと染みついて百パーセント実行され、ルールがきちんと守られていたら、本来、問題は起きない。
 ふつうのモラルを維持できない人が多い、というより、そういう環境だから、わざわざ、CSRだの、ガバナンスだのといって、意識させなければならないのである。

 忙しい、とか、採算が合わない、などといって、さまざまなことが雑になる。そして、一人一人の患者の自己治癒能力を高める、なんて悠長なことを言っていられないから、抗生物質をどんどん使って手っ取り早く治そうとする。ベッド数は一定だから、売上げや利益率を上げようとすれば、回転率を上げるしかない。
 ビジネスとなった医療現場のかかえる根本的な問題といえるだろう。

 こうしてあらわれた多剤耐性菌は、ひょっとしたら、この先の新型インフルエンザより怖いかもしれない。
 そして、この、なんとかバスターみたいな名前の菌より、さらに強烈な耐性菌が、続いて登場した。こちらは、NDM1という「遺伝子」だそうで、さまざまな病原菌にも広がって、それらを「スーパー耐性菌」にする可能性がある、という。
 そんなところで、スーパー、っていわれてもねえ。
 いやはや、まさに、バイオハザードのような世界。

 なんていうことを言っていたら、今度は、キリン協和発酵さんの研究所から、遺伝子の組み替えマウスが二匹、行方不明になった。
 まあ、どこでも、危機管理や、企業の社会的責任(CSR)は、こんなものである。

 ところで、今、おそらく、心ある医療関係者が、この耐性菌の蔓延に心痛めるのと正反対の方角で、心痛めている人たちがいるはずである。

 「医療ツーリズム」という言葉を耳にすることが、最近多くなってきた。
 医療水準が日本より遅れていて、自分の国では持病をちゃんと治すことができない外国のお金持ちを、日本の医療機関で治してあげよう、というものだ。
 たとえば、大阪大学では、サウジアラビアの人たちに最先端の心臓病治療を提供しようと、向こうの病院との「連携」を始めた。今年中には患者が来日するというから、おそらく、またニュースになるだろう。

 この医療ツーリズムでの治療費をどうするかについて、「医療が金儲けの手段になってはいけないから、費用を差別するのはよくない」という意見があるそうだ。
 医は仁術、ですからね。
 でも、この場合、その考え方は間違っている。
 はっきり言って、もともとが、金儲けのためのアイデア、そのものでしょ?(笑)

 だいたい、砂漠の国々でカネが余っているなら、金持ちの先端治療に優遇をはかるより、若い医学生をその技術や知識の修得のために留学させるほうが、本来だろう。だけど、そっちの話は聞かない。
 そういう身勝手な、たまたま足もとからアブラが噴き出しただけで、我が世の春を謳歌している砂漠の成金さんたちには、可能な限りの高額料金で「医療サービス」を提供してあげればいいのです。

 医療の大切さを理解するがゆえに、千数百年かけて、先達が苦労を重ね、育ててきた文化と技術を、別に相手が外国人だからだめなどということではない、札束で優先的にいのちを買おうとする連中に、気軽に与える必要なんか、どこにもない。医療には、インフラに膨大な費用が積み重ねられてきている。少なくとも百倍くらいの医療費をとって、それを、日本だけでなく、世界の人々のいのちを救うために使えばいいのだ。生きられるはずなのに死んでいく子どもたちが、世界にどれだけいることか。

 だけど、その「医療ツーリズム」の最大の敵となりそうなのが、この、耐性菌ですね。
 金の卵、の「患者様」を、万が一にでも感染させて死なせたりしたら、これはたいへんな痛手となる。最先端医療のブランドに傷がつく。
 なにせ、治療できるクスリがない。
 関係者は戦々兢々。心痛んでいることでしょう。

 だから、そのための必死の努力をしてくれると、逆に、新たな対策が生み出され、希望がみえる、ということも考えられる。
 欲得は、世界を救う。
 医療ツーリズムで提供されるのは、ほとんどが最先端の治療技術になるだろうから、かなりリスクの高い患者ばかりだ。そのため、院内感染のようなリスクにたいするマネジメントも、相当にレベルが高くなければならない。国内の貧乏人を患者として診るより、外国からのVIPのような金持ちを相手にしているほうが、はるかに緊張感はあるだろう。そうすると、そのあたりで、感染対策が進むきっかけになるかもしれない。
 皮肉なパラドックスではあるけれど、そうなれば一石二鳥で、医療ツーリズムの利点は、むしろ、そのあたりにあるかもしれない。
   
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2010年09月08日

白露に、八朔の苦餅。

旧暦八月朔日 辛酉(かのととり) 白露

 今日は旧暦八月一日。八月のお朔日(ついたち)なので、八朔(はっさく)。朔日だから、新月です。
 祇園花街では新暦8月1日に「八朔」行事があるけれど、八朔、と呼ぶには、本来なら旧暦なのかな、と、つい思う。

 八月一日。八朔やいうて、ご機嫌伺いに、お茶屋さんを廻る。「お変りおへんか」「おおきに、ご丁寧に」と挨拶をかわすのやけど、ゆうべ、そこのお座敷へ呼んでもろといて、お変わりおへんかもないもんである。いったい、なんのために廻るのか、大方は知らへん。しかし、わたしは、これは知っている。四国の里でもするからである。ただし、九月に入ってから、つまり、これは、陰暦の八月の朔日のことで、うちらの田舎では二百十日、二百二十日とならんでの厄日としている。風や出水のある頃なので、変りないかと見舞うのである。都会の、しかも祇園町で、おまけにまだ暑い盛りの八月一日に、なんで風や雨のお見舞いせんならんのかといわずにいられへん。ただのしきたりをやるだけやろか。ねえさんにきいたら、まえは、町方の旦那方が帷子の着物に着かえて、お礼に廻る。お武家やお公家さんで、昔やってはったように、主家への忠義を誓うて、日頃の御恩義を感謝しやはるのやと教えてもろうたが、さあ、この頃、そんな忠義な心になるひとあらへんのとちがうか。(略)お茶屋さんでも、おかみさんや仲居さんが、おなじみの芸妓、舞妓の名入りの団扇を持って、町のごひいき筋へ、日頃の感謝の心持を申し上げにゆき、あわせて暑中のお見舞いに行かはったもんやそうである。それに、もうすぐ、お盆でもあるし、そうした、御挨拶もそうして兼ねておくということでもあるのやろうか。

 思いきり引用が長くなったけれど、もう、ずっと前に倒産して無くなった駸々堂さんの、ユニコンカラー双書という、結構面白かった新書シリーズの007、おっ、ダブルオーセブン、『舞妓の四季』の一節。絶版書なので、ちょっとひっぱってしまいました。
 著者は、依田義賢さんという、すでに亡くなった脚本家で、溝口健二監督の映画シナリオを多く手がけたかた。
 舞妓はんが語る、という体裁をとりつつ、どうしても男言葉の作家の口調になっているけれど、かつて京都での映画製作全盛期を支えたシナリオライターさんが、時代考証はもとより、どんな事象にもきちんとウラをとり、知識を深めて、すみずみまで気配りと想像力をはたらかせていたことが、よくわかる。
 新暦での8月1日の行事となっているものの、新年・春・夏・秋・冬、と分けられている目次では、ちゃんと、「秋」の項目の冒頭にある。

 きちんとした、おそらく厳しい仕事をしてきた人の書物には、近頃よくみる、まだ若い舞妓さんや芸妓さん(をちょっとだけ経験したかたがた)がひけらかすように書く(ライターさんが入っているのも多いだろうけれど)、軽々しくてえらそうな本や、あふれかえるネット上の「京都情報」とちがって、基本的に間違いはそんなにないだろうという、少しばかりの安心感がある。
  http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/123441473.html

 引用した一文にもあるように、もともと旧暦でいう八朔は、厄日だったらしい。
 今年、9月1日が二百十日だった。
 11日は二百二十日となる。
 で、八朔とあわせて、三大厄日! なのだそうだ。
 うーん、今年も実際に台風がやってきましたね。

 古く農家では、その年に取り入れた新しい稲などを、主家や知人などに贈って祝い、同時に豊作祈願・予祝などの行事を行った。のち、この風習が町家でも流行し、この日に上下貴賤それぞれ贈り物をする習慣を生み、祝賀と親和を表すようになった。また、この日の行事をいう。田実(たのむ)の祝い(節供)のこと。田の実・たのも節句ともいう。「たのみ」とは田の実、すなわち稲の実りのことを意味し、これを祝うことから起こったといわれる。転じて、君臣相頼む(たのむ)の意にかけて、主従の間の贈答を意味するようになった。

 こちらは『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)から。
 「たのみ」というのが、いささか唐突でわかりにくいが、ここでは、さらに、徳川家康の江戸入城が八月朔日だったので、以後、重要な式日となったことや、農家では「八朔の苦餅(八朔の泣きまんじゅう)」といって、ぼたもちを食べて祝った、といったことも紹介されている。
 泣きまんじゅう、というのは、下男下女たちが、この日を境に忙しくなり、つらい夜なべの日々が始まるから、と説明されている。
 うーむ。
 なんとなくわかったような気にさせるのだけれど、稲刈りの時期に入るということなのだろうか。

 ま、なんにしても、和菓子屋さん、餅屋さんは、「八朔の苦餅(にがもち)」を売り出せば、今どき、いい季節ネタになるのじゃないのかなあ。

 こういった由来がどこまで正確なのかはわからないけれど、武家らしい語呂あわせ的こじつけの式日や、農村の厄日だったものが、なんで祇園でも行事の日となったのか、それに、いつ旧暦から新暦に移し替えられたのか、ひょっとしたら、新暦採用以降に生まれた行事なのか。
 考えてみると、つい百年、二百年前のことが、結構不確かで、ちゃんとした記録の大切さが、あらためて思いやられる。

 旧暦八朔の今日は、二十四節気では「白露(はくろ)」。
 「せきれいが鳴き始め、つばめが去っていく」(前出事典)頃だそうだ。
そういえば、鴨川のハクセキレイは、夏の間は見なかったかな。
 ツバメはといえば、めっきり来なくなった。
 去年も、今年も、何羽見たか、数えられるくらいだ。

 ツバメ同様に見なくなったのがゴイサギ(五位鷺)。
 まるまると太った鯖に足とくちばしをつけたみたいな鳥ゴイサギは、見る限り漁がとても上手とはいえず、鴨川のあちこちの落ち込み、流れ込みの上で、延々と下流を眺め続けているのを、こちらもつき合って(笑)見ていたことがよくあるけれど、魚を捕るのを見たのは、何年もの間に、せいぜい二、三度しかなかった。
 コサギやチュウサギといった白いサギたちは、じつに素早く小魚を捕るのに、正五位という殿上人の位を持つゴイサギの君は、慌てず騒がず、日がな一日ずっと水面を見ているようだった。彼らはもう、戻ってこないのだろうか。

 生物学に疎い者には、身近な環境変化の背景が論理的に解明できないが、なんとなく、まわりの生き物が減っていっている、という気はする。
 夏のはじめ、五月雨の時期には、松原橋あたりの水辺を歩いていて、鯉かと思ったらヌートリアが泳いでいた。人をまったく警戒せずに土手の斜面に上がり、すぐ二、三歩の距離で、こちらにお尻を向けておしっこをした。
 友人のブログをみていたら、彼も見つけたようで、だけど、その後、死骸を見たと報告していた。いろいろな意味で、身勝手な人間による犠牲である。

 いるべきものがいなくなり、いないはずのものがいたりして、やがて、ある日、気づいたら、人間だけしかいなくなる日がやってくるのだろうか。
 八朔に、雨風を見舞い、苦餅を食べながら「田の実」に感謝する、それは自然の摂理に対する畏敬の、ささやかなひとつのあらわれだったのかもしれない。
   
ラベル:八朔 白露 苦餅
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2010年08月30日

上田秋成さんの「戒名」?

旧暦七月二十一日 壬子(みずのえね)

 博物館に行くのは、金曜日の夕方にかぎる。

 京都国立博物館では、特別展の開催中、金曜日だけ夜8時まで開館時間を延長している。この夜間の展観を始めてから、もう何年も経つはずだけれど、意外と知られていないのか、かなり混雑する展覧会でも、この時間になると、少し人が減る。

 時間帯そのものの効果かもしれない。観光のお客さんであれば、夜には食事や繁華街を楽しもうとするだろうし、地元京都の人でも、なかなか夜に出かけて行って観覧しようとは思わないのかもしれない。そのあたりは、近所民ならではの利点ですね。

 没後200年記念の『上田秋成』展。上田秋成さんには、それほど興味がなかったけれど、一年間有効の「京都国立博物館友の会」の会員証が8月末で切れるのに、この間、『シルクロードの文字を辿って』だけしか見られなかったので、先週の金曜日、しゃくだから見に行った。(笑)

 特別展の場合、本館(旧館?)の全室を使って展示されることが多いけれど、展示可能な秋成さんの遺品が少なかったのか、半分で終わり、中央の部屋には「研究成果」として青銅鏡に関する展示があり、残り半分の部屋では「新収品展」をやっていた。こちらも、それなりに面白かった。

 上田秋成といえば『雨月物語』。小学生くらいの頃だったか、子ども向けにやさしく書かれた本で読んだ記憶がある。いくつかのストーリーは、まったく覚えていなくて、その中のどれかに、たいへんな体験をした人物が、その夜「緑青色の小便をした」という描写があった、それだけがなぜか印象に残っている。たしか「緑青色」というのがまだわからなくて、オフクロかオヤジに訊いたのではなかったかなあ。
 怪談、なんていわれることがあるようだが、怪談というより、やはり「奇譚」というほうが、しっくりくる感じではないだろうか。

 秋成さんは、大阪(大坂)で生まれ育って、年をとってから京都に住んだらしい。
 俳人でもあって、俳号のひとつに「無腸」という号があった。
 無腸というのは、「蟹」という意味なのだそうだ。
 お墓が、京都の南禅寺近く、西福寺というところにあるらしいが、その 墓石の台座にあたる部分が、なんとカニのかたちをしている。本人の遺志か、仲間の配慮なのか、いや、みんなユニークだったのですね。

 秋成さんは、いくつもの雅号を持っていたが、墓石になるくらいだから、これが代表的というか、お気に入りだったのでしょう。諡(おくりな)も「三余無腸居士」で、やっぱりカニさんなのである。

 「三余」というのは、三つの「余った」あるいは「余らせることができるはずの」時間のことらしい。

「読書に最も適した三つの時期または時。冬(年の余)・夜(日の余)・陰雨(時の余)。」(『国語大辞典』小学館)

「学問をするひまがないという者に対して三国時代、魏(ギ)の董遇(トウグウ)が教えた、三つの余った時間。冬は年の余り、夜は日の余り、陰雨は時の余り。」(『大漢語林』大修館書店)

 で、カニさんのことを「無腸」とか「無腸公子」というらしいが、「無腸」という言葉には、節操がない、とか、腹がすわってない、といった意味がある。
 カニさん由来で、そういう意味がついたのでしょうか。そういえば、カニさんに腸のようなかたちのものはみあたらないので、無腸、というのは、なるほどわからなくはない。でもなんで、そんなに「節操がない」なんてののしられるのでしょう。横に歩くから? おそらく、どこか、中国の説話あたりに由来となる話がちゃんとあるのでしょうね。

 秋成さんの諡は、学問をすることのできる三つの時間に、無節操と思われるくらい、いろいろなことをしてきた、といったような意味なのでしょうか。つまり好奇心旺盛で多芸多才、マルチタレントだったね、みたいな……。

 本人が、無腸という号を好んだとすれば、みずから「わたしは節操がない人間ですよ」と、わざわざ卑下して言うぶん、じつは節操ということをたいへん重んじていたことの裏返しではないかという気がする。義理堅い人だったのではないだろうか。

 戒名(かいみょう)は本来、生前につけたものらしい。受戒して仏教徒となった時にもらう名前で、宗派によっては法名とか法号などと呼ぶ。諡号(しごう)は、亡くなってから生前の功績を称えて贈られるものだけれど、秋成センセイの諡には、居士とついているので、俗人にとっては戒名と同じようにみえる。
 いずれにしても、今は、亡くなったときに居士だとか信士だとか院だとか、支払う値段によって、信仰も学も何もない坊さんからつけられる、適当な戒名なんかより、こういった、含蓄とユーモアのある諡(贈り名)のほうが、はるかに本人の遺徳も偲ぶことができるし、送った人々の記憶にも残る。

 秋成さんは、片目ずつ見えなくなって、一度完全に失明している。
 ところが、針灸治療か何かで、一方の眼はふたたび見えるようになったらしい。その医者を「神医」と呼んで、以後、たいへん尊重しているのがわかる。
 どんな病気で、どうやって回復したのだろう。見えなくなった眼が、しかも、あの時代に、ふたたび見えるようになったというのは、すごいことではないのだろうか。そりゃもう、神の医者と呼びたくなりますよね。

 時代は二百年前。わずか二百年前、なのかもしれない。
 だけど、二百年のタイムスリップはやっぱり隔世の感がある。
 『雨月物語』を普及させた和本は、すでに文化財であり、今ではオフセット印刷された洋装本で読む。
 二百年先、どころか、二十年先には、もう、ほとんどの人が電子書籍で読んでいるだろう。二百年先には、今、手にしている「本」そのものが、展覧会に並んでいた和本のように、よほど特殊な用途以外、過去の文化財となっていることは間違いない。

 それにしても、やっぱり、時間さえあれば、いろいろな世界は見るべきだと再認識。
 上田秋成さんという、あまり関心を持っていなかった先達の生涯も、少し身近に感じていろいろな関心とあらたな疑問で、少しばかりくすぐられたのでした。
   
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2010年08月26日

脳死になりそうな暑さの中で。

旧暦七月十七日 戊申(つちのえさる)

 週明けの月曜日、23日が「処暑(しょしょ)」だった。
 テレビのニュース番組も、今年は、この格別の「残暑」を表現するのに、どこの天気予報でも「処暑だというのに…」と言っていた。
 二十四節気をピックアップするのは、いいことです。(笑)

 処暑の前は「立秋」だったし、次にくるのは「白露(はくろ)」である。
 当然、処暑は、季語としては秋。
 季節はもう、深まりゆく秋、なのだ。
 おなじみ『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)では、「処暑」をこんなふうに説明している。

 旧暦七月、申の月の中気で、新暦八月二十三日頃である。(略)
 暑さが止むの意味から処暑という。涼風が吹きわたる初秋の頃で、暑さもようやくおさまり、綿の花が開き、穀物が実り始め、収穫の候も目前となる。昔から、この頃は二百十日と並び台風襲来の特異日とされており、暴風雨に見舞われることが少なくない。

 台風も、きわだって少ない。いやはや、パーフェクトにはずれてしまった今年です。
 白露の次が「秋分」で、「暑さ寒さも彼岸まで」とはいえ、そろそろ暑さがやわらいでくれないと、夏バテからも立ち直れない感じですよねえ。(汗)

 この夏の暑さで、みんなが、ぼーっとしている間、「セイジ」は停滞の極みといった感じだったけれど、「生体臓器移植」という「医事」は、一気に進んだ。

 立秋が過ぎたばかりの9日には、65年目を迎えた「ナガサキ」とともに、新しい移植法による初の臓器提供がニュース番組を賑わしていた。
 本人の明確な意思表明はなく、家族による同意での臓器提供。
 さらに19日には近畿で初の新法による臓器提供として、本人承諾なし、という前例がつくられた。
 その後も提供が続いた。今でこそ「情報公開が不充分だ」などと追求されているが、もう、まもなくニュースにもならなくなるだろう。

 臓器移植という医療そのものに反対ではない。
 献血だって、アイバンクだって、臓器移植と同じことである。
 どうせ焼いて灰になるものが、誰かのいのちを救うのであれば、それはそのほうがいい。
 だけど、なんだかわりきれないものが、「ゾーキイショク」という救命方法にはつきまとっている。

 有名な話ではあるけれど、40年余り前、札幌医大の和田寿郎という医師によって行なわれた日本で初の心臓移植は、疑惑だらけのもので、臓器提供者にちゃんとした医療を施さずに摘出したのではないかとされ、殺人や死体損壊の疑いで告発された。
 嫌疑不充分で不起訴とはなったけれど、臓器提供者に筋弛緩剤を打つ、などというのは、とても医師の仕業とは思えない。

 この事件を、日本の臓器移植の「不幸な出発点」と言ったりするけれど、案外、最初に本質があらわれたのではないかという気がする。
 外科医というのはたいへんな仕事で、すごいお医者さんもたくさんいるけれど、少し前にあった事件のように、患者を実験台のように扱って、やったこともない手術で死なせてしまう、まさに人の皮をかぶった悪魔のようなクズも、たまに紛れ込む。
 だから、うっかり「わたしの臓器は人々のために」などと口走ってしまうと、実績をあげたくてしかたない冤罪づくりの刑事のように、うずうずしている医者によって、さっさと「脳死」にされてしまう危険がなくはないのだ。

 再生医療の実現までには、まだ、少し時間がかかりそうだ。
 だとすれば、ほかに生き延びるてだてのない患者にとって、耳元で「移植すれば助かりますよ」と、ささやかれるのは、まさにひとすじの光である。なかば、あきらめかけているところに、かすかな確率の希望をもたせるということの功罪については意見がわかれるだろうけれど、医師のエゴイズムで妙な期待を持たせるとしたら、これほど罪つくりなことはない。

 臓器移植をやりたくてしかたない医師にとっては、おお、最高の臓器が提供されそうだ、なんて思ったとき、まわりのことは見えなくなる。
 新法で初の臓器提供という記者会見で、日本臓器移植ネットワークの本部長という女性が、たしか脳死判定されてみずからの臓物を提供する人のことを、「○○センターで管理している…」と説明していた。
 「……で治療している」あるいは「治療を続けてきた」○○さん、ではなく、彼女にとっては「管理している」貴重な臓器なのだ。そこには患者の生命や人格は、すでにない。本音がつい、口をついて出る。

 この、日本臓器移植ネットワークという組織も、ネットワーク、なんていう名前がついているから、なんとなく民間のボランティア団体のようなイメージを持つけれど、どうも、国の外郭団体のようなところらしい。

 提供の根拠となったのが、どういう「家族」の了解か、という質問には「答えられない」と言っていた。
 新法で二例目となる、次の近畿の例では、提供するという本人の意思表明は過去になく、「家族」の同意だけで提供された。

 ま、極端にいえば、どこかでばったり倒れて亡くなったときでも、家族の了解がありました、とさっさと「腑分け」されかねない、ということを感じる。
 それに、おそらく、これから、蘇生の可能性が少ない患者や、亡くなろうとしている患者の家族に対する、臓器提供への有形無形の圧力は強まるだろう。
 すでに、何年か前から、脳死状態や寝たきりでの長期入院ができないようになっている。

 これから、誰かが脳死となれば、家族にとっては、世のため人のために、臓器を提供するのが正しい人の道だ、といったような風潮をつくっていこうとするでしょうね。
 脳死で、臓器が健康なのに、それを差し出さないのは非国民だ、みたいな雰囲気がつくられる可能性もなくはない。

 あなたがここで同意しないがために、生きられる人がもうすぐ死んでしまうかもしれないのですよ。と、まわりの医療関係者が目で語り、無言の圧力となるとしたら、これは怖いことである。
 そして、あとで、ほんとうに、提供した人のいのちは救えなかったのだろうか、と疑問がわくことになれば、これほど不幸なことはない。

 だからこそ、やるなら、きちんと情報公開が必要である。
 受ける側はともかく、提供者は堂々と名乗ればいいのである。ならぱ医療機関も摘出に至る経緯を不明瞭にできない。

 ビジネスにおけるCSRと似ている。
 「あやしい」と思われたら、もう、いけないのだ。
 外科医は切りたくてしようがない人種だ、と世間一般には思われている。
 企業は、なんだかんだといって、結局、儲けたくてしかたないというのが本音だろう、と思われるのと一緒である。
 正論のためにはきちんとがまんもする、それが公的責任である、と「わかって行動している」ということを、ちゃんと証明しなければならない。
 医療機関の「社会的責任」とは何か、どのように果たすべきなのか、疑惑だらけの心臓移植に立ち返ってみると、直接の患者に対してだけではない「説明責任」を果たすことの必要性をあらためて考えざるを得ないだろう。

 それにしても、今のようなシステムで、日本臓器移植ネットワークなんていうあやしげな名前をつけた団体に、腑分けされたくはないな、と思ってしまうのはしかたなさそうだ。
 気軽にドナーカードなんかを持つのは、お年寄りが、初対面の介護士さんに年金手帳も預金通帳も何もかも全部あずけるようなものだろうという気がする。

 少なくとも、親しくもない、素性のわからない医者に、内臓なんか絶対にやらないぞ!(笑) と思ってしまうのは、博愛精神に欠けるでしょうか。
   
ラベル:臓器移植 CSR
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2010年08月06日

青木雅彦さん、という実在から。

旧暦六月二十六日 戊子(つちのえね)

 ひと月あまり前、新しい本が出来上がってきた。
 東京での印刷、製本だったので、遠路トラックで届いた。
 とりあえず、編集委員会メンバーの、大学の先生の研究室に搬入。
 ソフトカバーではあるけれど、A5判336頁というボリウムなので、ちょっとした嵩がある。

 教訓。本は2p以内の厚さでつくりましょう。クロネコメール便で送れます。送料が倍以上違う。しまった(笑)。これだけでも書籍電子化が推進されてしまってみずからの首をしめることを、郵便局は知るべきでしょうね。

 『ハーフ オプション 軍事費を半分に! −市民からの提言−』
 正式なタイトルはこうです。こうしてみると結構長いな。
 著者は青木雅彦さんという市民運動家。
 青木さんは、丹波篠山の出身で、県立の篠山鳳鳴高校を卒業したあと、関西学院大学に学び、物足りなかったのか、さらに、京都大学に入学している。
 2008年の春、亡くなった。

 その業績をまとめて残そうと、彼を知る人たちが集まって「青木雅彦著作出版委員会」をつくった。その中に、先輩エディターが何人かいて、手伝わないかと声をかけてくれた。青木さんという人をよく知りもせずに失礼だったかもしれないけれど、本づくりに加わった。

 委員会の中の、実務を進めるメンバーと、およそ一年間、毎月のように会議を開いて、一冊の書物をかたちにしていった。たいへんだったけれど、これは、じつに楽しい時間だった。
 東京に、やはり古くから青木さんを知る仲間が一人いて、編集から組み版、印刷、製本へのプロセスをフォローしてくれた。
 先輩たちは直接の作業にはあたっていないので、京都で実務にあたるほかのみなさんは、本づくりには、まさに完璧な素人である。だからこそ、かもしれない。そのエネルギーは、ちょっとしたものだった。

 市民運動、と、言葉に定義してしまうのは、なんとなく抵抗があるけれど、既成の政党のような規律に縛られた組織とは少し異なる、ゆるやかなつながりの中で社会の改善をめざす、とでもいえばいいだろうか、そういった地道な作業を続けてきた人たちである。
 世の中、なんかおかしいんじゃないか。少しは考えようよ、できればよくしたい。といった、自然な発想を実践するのは、実際には、たいへん困難をともなうのが、現実の社会である。

 一般人? からみると、そういった、まあ、「なんのトクにもならない」ことを、多くの時間をさいて、しかも自腹を切って、ときにまわりの人も巻き込みながら(笑)、だけど別に自己犠牲でもなんでもなく、まさにサスティナブルにやってきた人たちである。
 だから、作業も、おおいに意見は分かれつつ、じつに自然にまとまる。
 みんな、お互いが「別の個体」であることを熟知し、尊重しているのだ。
 国会のみなさんに、みせてやりたかったね(笑)。

 この本の、青木さんの年譜に、誕生日は入っていない。なんと誰も正確に知らないのだ。
 だけど、その年々の記録については驚くほど詳しい。何がそれぞれの人たちを互いにつないできたのかがわかる。

 いわゆる「遺稿集」にはしない。
 これが唯一の編集方針だった。

 今日は、世界が知るメモリアルデー「ヒロシマ」。
 三日後には「ナガサキ」である。
 青木さんは、「NPTと非核法を考える−ヒロシマ・ナガサキから五〇年目に」で、冒頭、こう書き出している。

 確かにあの五大国というのは、学校の教師に似ている。職員室でタバコをプカプカふかしながら「お前なぁ、タバコを吸うんがどんな悪いことかわかっとんのかぁ! えーっ!」とお説教する教師に。
 生徒がこっそり吸えば犯罪だが、教師にとっては魂のやすらぎをもたらす清涼剤である。同じタバコでもタバコが違うのである。(略)
 核兵器だってそうだ。アメリカやロシアの持っている核兵器は「抑止力によって世界に平和をもたらす天使の贈り物」だが、「核クラブ」以外の国がこれを持とうとすると、「人類に対する犯罪」だの「世界を悪魔の手に委ねる」だのありとあらゆる罵声が浴びせられるばかりか、ときには「鉄拳制裁」をくらう。

 タバコ環境は、若干、今と微妙なニュアンスが異なるかもしれないけれど、このわかりやすい文章は、1994年の終わり頃に執筆されている。

 「ハーフ オプション」という表題は、あとに続くとおり、「軍事費を半分に」減らして、それを、たとえば災害救助や難民対策、貧困や飢餓、あるいは環境保全への基金としよう、といった、青木さんの基本提言による。
 誰だって賛成できるよね、と思うけれど、なかなかそうはいかない。

 世界の軍事費は膨大である。
 核爆弾の開発なんかにカネをかけるより、飢えた子どもたちの食糧を確保するほうが大切なことは、誰もがわかっているはずなのに、未だに、人食い族のような原始的な勢力争いを続けている。

 今年の「ヒロシマ」の式典には、初めて国連の事務総長やアメリカ大使が出席した。
 だけど、「核廃絶」への道は、まだまだ、はるかな道のりにみえる。

 本の中で、青木さんが、マーク・トゥエインの小説を引用している。ちょっと長いけれど転載。

 戦争を煽るやつなんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。……いつも決まって声の大きな一握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。するとさすがに教会なども、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。それから国民の大多数もだ、鈍い目をこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶさ、『不正の戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない』ってね。……だが、それもとうてい長くは続かないね。何しろ煽動屋のほうがはるかに声が大きいんだから。……まず戦争反対の弁士達は石をもって演壇を追われる。そして、凶暴になった群衆の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。……あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国の悪宣伝をやる。国民は国民でうしろめたさがあるせいか、その気休めに、それらの嘘をよろこんで迎えるのだ……こうして、そのうちには、まるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、まことに奇怪な自己欺瞞だが、そのあとではじめて、ぐっすり安眠を神に感謝するわけだな。
――『不思議な少年』

 この暑さだけれど、明日はもう立秋。
 せめて8月くらい、あの、日本人だけで、戦闘員、非戦闘員あわせて200万人以上の犠牲者を出したといわれる戦争がどんなものだったか、ほんの少し、思いをめぐらせてみてもいいのではないだろうか。

    青木雅彦
     『ハーフ オプション 軍事費を半分に! −市民からの提言−』(草莽社)

    ↓ ここで、この本が紹介されています。
      写真がちょっとイマイチですが(笑・謝)。

     http://mamoru.fool.jp/blog/2010/07/post_99.html
   
ラベル:ヒロシマ 軍事費
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2010年07月31日

雷は、めでたいか。

旧暦六月二十日 壬午(みずのえうま)

 祇園祭は今日で終わりです。
 祇園祭の掉尾を飾るのは「疫神社夏越祭」。この茅の輪くぐりにも行ってみたいけれど、まだ未体験。

 17日の山鉾巡行が、なんといっても目立つので、巡行が終わり、山や鉾が解体されると祭が終わったように誤解されがちですが、じつは7月1日から31日まで、一ヶ月間、祇園祭は延々と続いてきたのです。

 京都での季節感としては、いまどきの天候不順になるまで、7月の中ごろに梅雨が明け、ちょうど宵山の頃、夕方のいちばん人出が多くなった頃、ゴロゴロと鳴り始めて、一天、にわかにかき曇り、どーっ、と夕立が来て、歩行者天国の人々は蜘蛛の子を散らすように逃げまどう、というのが定番でした。

 ここ数年、山鉾巡行の日に雨ということが続いたのですが、今年はちょうど梅雨明けと重なり、いいお天気で人出も多かったですね。
 もっとも、梅雨が明けたものの、それから一週間、夕立がなかった。
 ゴロゴロと鳴ったのはようやく24日の還幸祭の頃だったか、7月になって初めて、というくらいの本格的な夕立だったのではないでしょうか。

 だけど、29日のニュースで、日本全体では、7月の落雷はすでに114万回で、史上最多だと言っていた。
 京都では、いまのところ、運よく少ないのかな。

 ウィキペディアの「雷」をみてみると、「雷と神話」と項目がたてられていて、「古来より、雷は神と結びつけて考えられることが多かった。」とある。
 そりゃそうでしょう。科学的な解明も何もない時代、いきなり天空から強烈な閃光が落ちてくる! 今だって恐ろしい話です。この世のものとは思えない事象への戦慄。

 雷(かみなり)は「神鳴り」である。
 「いかづち」と呼ぶのは古い言葉だけれど、古語辞典では「厳(いか)つ霊(ち)」とある。「霊(ち)」とは、「おろち」や「いのち」の「ち」で、「自然物の持つはげしい力・威力をあらわす語」(『岩波古語辞典』補訂版)だそうだ。

 あの強烈な閃光は、稲妻(いなずま、いなづま)、や、稲光(いなびかり)と呼ぶ。稲つるび(いなつるび)ともいうそうだ。
 ここで気がつくのは、みんな、「稲」とくっついていること。
 妻(つま)は夫(つま)でもあって、「ツマ」はもともと、男女どちらということなく、結婚相手、つれあいのことを言ったらしい。
 稲のつれあいに、稲の光。そして、「稲つるび」というのも、稲と雷がつるむ、つまり交わって稲が穂をはらむ、という古代の自然観による言葉といわれている。
 稲とカミナリさんとが愛し合って、お米が生まれるのです。おお!

 この、イネとカミナリの切っても切れない仲について教えてくれたのは、何で入手したのだったか、たまたま見つけた機関誌のような冊子に載っていた短い記事。
 「いなづま≠ヘ何故稲(いね)の妻(つま)?」六角聰子さんというかたが書いている。肩書きは、国連大学ファンド企画担当官となっていて、残していたこの記事の部分だけのコピーは『食糧振興』61の22〜25ページとなっている。
 不覚にも刊行日を記録していないのだけれど、かなり古い記事。

 ネットで調べても誌名として出てこない。おそらく農林水産省の、かつての外郭団体か何かで「全国食糧振興会」というのがあり、そこが出していた定期刊行の広報誌のようなものだったのでしょう。

 記事は「日本の稲妻とアジアの稲の女神たち」「古代における雷・稲妻と稲の関係」「雷と稲妻の文様の由来」と続けたあと、「落雷と作物豊穣の因果関係」として、「稲の妻」の科学的な分析を紹介している。


 ところで雷が落ちた場所では、作物の背がひときわ高く伸び、稲穂の発育がよいことはよく知られています。神々が住まう場所を結界し、不浄を浄めるために、今でも水田に落雷すると、青竹を立て、注連縄(しめなわ)を張って祭るならわしが全国的に残っているといいます。何故、落雷が歓迎されるのでしょう。(略)
 アメリカのNASA等幾つかの研究所が協力して雷電研究国際プログラム(TRIP)≠設立し、観測した結果、色々と今まで解らなかったことが解明されました。(略)空気中には空気の体積では約八割を占める窒素(N)と、二割を占める酸素(O)がある。そこへ雷による空中放電で一瞬にして大量の電流が流れ、窒素が酸素と化合して一酸化窒素(NO)となり、さらに二酸化窒素(NO)に変わり、雨水に溶けて硝酸(HNO)になる。それが地中で作物の肥料となって吸収されるということで、落雷と作物の関係は説明できるかと思われます。


 なるほど。そうなんだ。
 それに、「雷」という文字は、「雨」と「田」でできている。まさに、恵みの雨も「いなづま」が連れてきてくれるわけですね。

 で、この短い記事は、このあと「インド・ヨーロッパの父なる天、母なる地の神々」「日本の稲妻の独自性」と続けて、世界共通の天地への畏敬を振り返り、最後では、あらためて「つま」を夫と妻の両方に使えるようにしてはどうかという提案でオチとしている。国際社会で働く女性の、チクリ、日本の男女意識への批判でしょうか。

 もっとも、先にふれたように、もともと「つま」は「夫」で「妻」。古語辞典でも「稲妻」は「稲の夫(つま)の意」と説明してある。きっと、おおらかな万葉の時代など、妻でも夫でも、どっちだってよかったのだ。
 稲「妻」と書くようになったのは明治以降、なんてことはないでしょうね。

 今年のバレンタインデーの京都新聞に、下鴨神社の宮司さんが「ブリ分け神事」という神事について記していた。これは、富山湾を望む射水市にある加茂神社の正月行事で、ここの氏子さんたちは、「鰤越し(ぶりおこし)」といって、「稲妻の閃光の中で獲れたブリが最高のものとしてお供えする」のだそうだ。

 稲だけではないのですね。
 もっとも、こっちは、師走頃の冬の雷鳴が漁のシーズンの到来を告げる、といった季節感が強いようで、稲妻がブリを美味しくしてくれる、というものではなさそう。

 「文明社会」に身を置くと、ゴロゴロと聞こえ始めた途端にあわててパソコンをシャットダウンしにかかるのがならわしになった。コンセントに雷ガード程度では、やっぱりこわい。

 だけど、稲とカミナリさんの親密な関係を、昔の人は体験的に知っていたのだろうと思うと、あらためて、肌身で感じることの大切さを再認識させられるとともに、「いなづま」や「いかづち」といった、ナチュラルな日本語ネーミングのたくみさに、感心させられてしまうのです。
   
ラベル:稲妻 落雷 吉祥
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2010年07月26日

「入会」と、映画『こつなぎ』

旧暦六月十五日 丁丑(ひのとうし)


 もう半月あまり前になるけれど、久しぶりにドキュメンタリーを観た。
 映画は嫌いじゃないものの、どうしても二〜三時間座っていないといけないので、観たい、と思っても、つい行きそびれてしまうことが多い。
 今回、京都では一回限りの上映。おそらく次はない!
 で、夜6時過ぎから、ということもあって、えいやっ、と出かけていった。

 ちょうど、その日まで『アバター』の延長上映があったのだけれど、昼の真ん中の時間帯で一回上映の最終回。仕事上は観たかったけれど、こちらはとうとうあきらめた。またやる可能性もある…。

 『こつなぎ』というタイトルのドキュメンタリー。
 「小繋事件」という呼称は、なんとなく耳にした印象がありながら、ちゃんと理解していなかった。
 少し前に、京都新聞で紹介、予告された記事を見ていなかったら、おそらく観ることはなかっただろう。

 時代としては、はるか昔の大正時代、ほとんど百年近く前に起きた「入会権」をめぐる事件の記録である。
 「入会(いりあい)」といっても、今は、死語に近いほど、知られていない言葉かもしれない。

 もともと、地球は誰のものでもない。
 山も川も海も空も、誰のものでもなかった。
 つまり、みんなのものだった。
 もともと、そこに暮らしている人たちが、経験に基づく知恵をもって、採りすぎず、捕りすぎず、今ふうに言えばサスティナブル、「持続可能な」利用によって共有していた。たとえば、村の背後の山は「入会地」として村人みんなで活用する、そういった「所有権」などない、空気のようなあたりまえの存在としての、ありようだった。

 それが、明治になって、土地に税金をかけるためには、「所有者」をはっきりさせなければならない、ということになった。
 先住民の「インディアン」に、それまで彼らの概念に無かった「所有権」を押しつけてから、「合法的に」土地を奪った、アメリカ開拓時代に近い発想ですね。

 岩手県二戸郡の小繋という地区でも、入会地としての、今でいう「里山」があり、薪を得たり、山菜を採ったり、建材を切り出したりしていた。
 国としては、いちいち村の人たちの了解を得ていては面倒だし、第一、まだ、明治維新からまもない頃、農民などは卑賤の者と相手にされなかった時代である。当時、この山を管理していた(管理、というのもあやしいが)、長楽寺という、村のおそらく唯一の寺、氏寺とでもいうようなところだろうか、その寺の「地蔵別当」というから、兼任住職みたいな坊主だったのか、法律上、その別当名義で「民有地」ということにされた。
 税金は、その後も村人が払っている。おそらく、お上のすることで年貢が増えた、くらいの感覚だったのではないか。その「民有」地券交付が1877年、明治10年とある。

 その後、坊主は金に困ったのか、村人に何のことわりもなく、地券を街の金貸しに売る。さらに十年ほどして金貸しは、貿易商に転売する。これが1907年、明治40年。
 このあたりで、すでに相当あやしくなっているが、その本質が露見するのが1915年、大正4年である。
 その小繋で火事がおき、28戸のうち26戸が消失という壊滅的打撃となる。この火事でおそらく絵図や古文書があったとしても焼失して、村人たちの使用権などの慣習による権利の証明が難しくなった(おそらく残っていてもあまり状況は変わらなかったのではないかとは思えるけれど)。
 で、もともと雨漏りがしていたほどのささやかな家を再建するために、山から材を切り出そうとしたところ、所有権は村人にないとして、警察を介入させた「所有者」が阻止する。

 1918年が「米騒動」のおきた年ですね。
 今では想像がつかないほど、人権などなく、貧富の差も激しかった時代である。

 こうして、1917年、当時としてはおそらく画期的な、入会権をめぐる民事訴訟を提起、裁判が始まる。この第一次訴訟は敗訴し、戦後、第二次訴訟を起こす。
 この間、入会地に勝手に入って無断伐採したなどとして、農民側も訴追されたり、逮捕されたり、という理不尽な弾圧もあり、一度は地裁で入会権が認められ、村民側の勝訴となるが、高裁で再びくつがえされ、最終的には、調停となる。その成立が1975年(昭和50年)。
 こんな愚かな判決は、もう、そう遠くない将来、判例などというもの以前の、前時代の名残をとどめる、社会関係の歴史として語られることになるだろう。まるで封建時代である。

 映画は、この出来事を取材するために、1960年から半世紀近く現地の撮影を続けて亡くなったカメラマン、菊地周さんというかたの残したフィルムを骨格として、写真家の川島浩さん、ノンフィクション作家の篠崎五六さん、といった人たちの取材記録をベースに、中村一夫さんという監督がまとめあげている。
 じつに百年。まさに20世紀がどんな時代だったのかをたどる記録である。

 ごくまれに、たまたま気がついたものしか観る機会がないが、日本の山村ドキュメントは良質なものが多くつくられてきていると思う。
 かつての新潟県朝日村の記録『越後奥三面 山に生かされた日々』も、小繋のような、権力との苛烈な闘争がからむものとは異なるけれど、淡々と、人々の暮らしを描いて、すぐれた貴重な記録だった。
 『こつなぎ』も、本質は、人々の生活がどのようにあったか、そのことについての、ある種無機質と言っていいくらいの客観的な記録だと思う。たまたま、そこに「所有権」という、自然や生活の根源に異質な存在が侵入してきたことで、かえって本来の人の暮らしかた、生きかたが、浮かび上がることになったのかもしれない。

 うーん。
 『ザ・コーブ』なんか目じゃないね。
 観てはいないけれど、ユーチューブで見る予告編だけで充分でしょう。
 ルイ・シホヨスさんも、遠いアジアの共同体の伝承にちょっかいを出しているより、ご先祖のギリシアの文化を心配したほうがいいだろう。

 「入会」のような概念は、契約社会の欧米人には理解し難いかもしれない。
 コモンズ Commons (共有財産)などと訳すらしいが、違和感がある。
 「入会」は、本来、財産でもなければ、共有権でもない。 いわば自然のままのいとなみである。いまや、月や宇宙にまで所有を認めようという、近代強欲国家の法制度には、あてはめにくいでしょうねえ。

 上映のあと、上記の記事でも映画の紹介にコメントを寄せていた、総合地球科学研究所の阿部健一教授が短い話をした。
 「コモンズ」から受ける利益を、近年「生態系サービス」と呼ぶのだそうだ。
 そこから生まれる価値、といっていいのだろうか、「関係価値」という概念が、今認識されつつあるそうだ。

 なぜ、ふつうに「自然の恩恵」、といわないのでしょうね。
 学問自体が、西欧的なのか、アングロサクソン発想なのか、なんだかぎくしゃくしているなあ。
 アジアは、みずからの価値観について、もっと自信をもっていいと思う。

 小繋は、かつての東北本線でしょうね、今、「いわて銀河鉄道」と呼ばれるローカル線の沿線にある。石川啄木の故郷で知られる渋民の駅から、北へ六つ目が小繋駅。
 岩手県で訪れたことのある、釜石も遠野もいいところだったけれど、このあたりの地図を見ていると、あらためて、ゆっくり各駅停車の旅をしたくなる。
 誰か、ルポの仕事でもつくりません?
   
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2010年07月22日

百貨店から、百佳店へ?

旧暦六月十一日 癸酉(みずのととり)


 もう、明日は大暑。
 何日か前、久しぶりに百貨店に行った。
 遅くなってしまった夏の贈答の手配のため。
 いわゆる、お中元ですね。

 お中元、の「中元」というのは、もともと道教からきている言葉なのだそうだ。
 道教の考え方では、上元、中元、下元、すなわち「歳の元(はじめ)」、「月の元(はじめ)」、「時の元(はじめ)」という「三元」があり、正月元旦を意味したという。これが、やがて、主流宗派の重要な行事と結びつくなどして、上元を正月十五日、天官の誕生日とし、中元は地官で七月十五日、そして、水官の誕生日を十月十五日、と分かれていき、「三元節」となった。この日も、かつては正月七日、七月七日、十月十五日、だったらしい。
 で、上元には仙人になることを祈願し、中元には積悪を解き、下元には先亡七祖の供養を願うことになった。(『月刊しにか』VOL.2/NO.11 特集・道教入門)

 日本では、そのうち中元だけが、盂蘭盆会の行事と結びついて残ったのではないかといわれている。
 そんなわけで、今年これまでの「積悪を解」くために(笑)、大丸百貨店の「ギフト会場」へ行ってきた。

 閉店40分前だったこともあり、会場はがらがら。このところ、毎年行くのが遅いこともあり、かつてのような何十人待ち、といった賑わいをみたことがないので、もう百貨店の贈答も、さびれきっているのか、と思っていたが、ことに6月中は、結構いっぱいだったそうである。
 つまり、早期割引の客寄せ効果は、かなりあったということですね。

 百貨店も、背に腹はかえられないのだろうけれど、他店に先がけて客を呼ぶために、「早期割引」もからませながら、贈答品の手配をどんどん早めている。今や、ゴールデンウイークが明けたら、もう「中元商戦」の案内がきている感じだ。
 正月元旦から開ける量販店や百貨店のような小売業も増えた。金儲けへの焦りと貪欲は、季節感をどんどん無くしていく。

 京都なんかは、もともと、盆暮れの贈答はよその土地より遅いといわれていたと思うのだけれど、そういう各地の「土地柄」も、生き残りのための、我を忘れた商売の前では完全に消えてしまっているのだろう。

 旧暦の七月十五日は、じつは今年でいえば、新暦の8月24日だから、まだずっと先だといえばそれまでなのだけれど、世間ではそれは通じないので(笑)、7月15日を過ぎた発送として、のし紙を「御中元」ではなく「暑中御見舞」としてもらった。
 この「暑中御見舞」も、ずっと前に、農協さんで果物を送ってもらおうとしたとき、そんな熨斗書きにはできない、と、電話でえらそうにことわられたことがある。イレギュラーはダメ、「御中元」しか対応できません! というわけである。7月の終わり頃だったと思う。今どきなら、そんなことは言わないでしょうね。

 どうやら大丸の「ギフト会場」は、その日で縮小になるようで、手続きをしているうちに閉店時間になってきたら、富士通パソコンのダンボール箱をいっぱい積んだ手押し車が、フロアのはしっこに並びはじめた。
 そうか、何十台と並んでいる、この受付用の端末はレンタルなのだ。
 そりゃそうですよね。考えてみれば、盆暮れ以外は必要のない機器。典型的な季節需要です。
 でも、回収にきていた業者さんに訊いたら、そこでも「ずっとしまっておく」のだそうだ。それもたいへんだなあ。なかなか微妙な採算性ですね。

 注文をパソコンで受付処理するようになったのは、早くて便利ではあるけれど、不便もある。
 早く届けられればなるべく早く、なんていう希望は「打ち込めない」のだそうだ。一週間後、以降であれば、日にち指定が可能だという。
 で、注文の中でひとつだけ、直接持参したいものについて、二重包装で自宅送り、を頼んだのだけれど、これだけは、早く着けばありがたいと言ったら、対応してくれていたお姉さんは、なんとかしてあげないといけないと思ったのでしょう。可能かどうか、聞きに行ってくれた。
 しばらく待っていると、上司らしい女性がやってきて、パソコンの入力方法を指示。
 四日後に受け取ることが可能になった。ありがとう。

 で、その上司は、目の前まで来て指示したが、そのとき、客にはなんの挨拶もなかった。 このあたりが、最近の百貨店の劣化ですね。
 直接対応してくれていたお姉さんは、とてもきれいな人で、訊いてみたら派遣さんではなくアルバイトだと言っていたが、じつに感じがよく、同性にキビシイ、うちのかみさんでさえ、素敵な人だというほどだったのが、救いだった。

 百貨店は低迷が続いている。リストラもあり、業界は再編が進んだ。
 だけど、客の需要がちゃんとつかめているのだろうか、という疑問は、ずっと前からあり、未だに消えない。
 まあ、富裕層ではないので(笑)、いまや、せいぜい贈答のときくらいしか百貨店で買い物はしない。それも、同じ品物が、ほかへ行けばずっと安く買えるとわかっていても、贈答に関してだけ、つい百貨店を利用するのは、「包装紙」のブランドを「買う」からだ。

 盆暮れでなくても、贈答、は百貨店の生命線だろう。だけど、そこのところでの対応には、過去にも疑問を持ったことが多い。
 たとえば、就職祝いにネクタイを買って、ギフト用に包装してもらおうとしたら、売場ではできないといわれたし、事務所の移転祝いに、簡単な角樽のお酒を買って、角樽に組み立てた状態で熨斗をかけて、と頼んだら、できない、と断られた。
 いずれも、かなり前なので、今なら、そんな簡単なことくらい対応できるのかもしれないが、各売場でのさまざまな販売をみていると、いささかあやしい。

 ギフト会場やカタログをみていても、十年ならぬ百年一日である。
 商品の種別に分類して、値段をつけているだけ。
 早期割引や、価格、送料の値引きをするしか売り上げは伸ばせないと思っているのだろう。
 贈答をする人の気持ちになっていないのだ。
 たとえば、相手が年輩の人であったら、「高血圧の人に役立つ商品」や「糖尿病の人に安心して贈れる商品」なんていうコーナーがあると便利だろうし、育ち盛りの子どもがいるとか、家族構成に合わせたお薦めの分類があってもいい。
 たしか、贈答で、受け取って嬉しいもの、の上位は、たいてい「商品券」である。無機質にアンケートをとれば、そうなるだろう。
 だけど、みんな、わざわざ「ギフト会場」にやってきて、けっして実用的一辺倒でない贈答品を、自分で選ぼうとするのはなぜか。

 消費は「モノ」から「コト」へ、と言われて久しい。
 百貨店も、「編集力」などと言いだし、みずから、消費への「物語」をつくり出そうと広告も打っている。
 だけど、じつは何もわかっていないのではないのか。
 ここ数年、毎年のように売上げで「前年同月割れ」を続けている背景には、百貨店という業態が、もはや市場に受け入れられなくなってきたことが示されている。
 ただテナントや納入業者まかせで、上前をはねるだけの優越感が染みついていて抜け出せないのかもしれない。

 百貨店というところは、機能していればとても便利なところである。だけど、百「貨」店の便利さとして持続しようとすれば採算がとれなくなるのだろう。
 モノからコトへ、と考えれば、百貨は百事へと移っていかなければならない。百貨店から百事店へ。それが、百価店となるのか、百佳店や百華店、あるいは百香店となるのか。
 かつての華やかな外商も半ば投げ捨て、デパ地下と物産展だけで保たせていても、百「貨」店の将来は望めないのではないかと、遅い三元節に、我が身の積悪を解くのを忘れて、いらない心配をしてしまったのでした。
   
ラベル:三元節 百貨店
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2010年07月12日

どういう国をつくりたい?

旧暦六月一日 癸亥(みずのとい)


 旧暦では今日から六月。
お朔日(ついたち)ですから、新月。昨夜は旧暦五月の晦日、つごもりで、月が隠る闇夜でした。
 民主党さんにとっても、真っ暗闇になりましたね。

 きのうの日曜日、朝イチに投票に行ってしまおうと思っていたら寝過ごして、じゃ、まあ、ゆっくり行こうかとぼちぼちしていたら、大雨になってきて、結局、夜になって権利と義務を果たしてきた。
 投票も規制緩和してくれないものだろうか。
 ついでに買い物や、用事をすませたい、と思う方向が、投票所と正反対。せっかくハガキを持参するのだから、どこの投票所でも一票が投じられるようにしてくれると、全国では国民の膨大な時間が浮いて、生産性に寄与すると思うのだけれど。

 この雨で投票率が下がるな、と思っていたが、投票所はことのほか人が多かった。前回の衆院選あたりから、おそらく経費の見直しだろうけれど、投票所が極端に狭くなったので、そのせいもあるかもしれないが、いつになく投票者の密度が高かった。
 それにしても、あの、狭くなった投票所で、投票箱の立会人の位置から、記入している内容は、意識して見れば、ほぼわかる。電子投票の実験の時もそうだったが、あれはいささか問題である。

 消費税を唐突に取り上げたことが民主党の致命傷になったと、マスコミも、当事者たちも言っていたが、それはちょっと違うという気がする。消費税発言が足を引っ張ったというのは、むしろ、メディアの扱い方によるところが大きいだろう。
 もともと、高速道路の無料化も、こども手当も、あまり支持されてはいない。農家の個別補償もイマイチである。もともと小沢一郎さんによる選挙対策的なイメージが強い。さらに普天間の問題と同じように、消費税→財政再建という論理も、具体的なビジョンなしに、思いつき的なイメージが強い。
 要するに、悪く言えば、政策の根本的評価以前として、プレゼンテーションが幼稚なのである。みんな、そこに不安を抱いていたのではないか。
 それと、支持率に便乗しようとして国会の閉会を急いだこと。
 未熟さが、誠実さになれば救われるのだけれど、結局、自分たちの利益優先、というのが、以前の自民党族議員や官僚と変わらないじゃん、と、有権者は敏感に感じ取って、公務員削減とかムダの排除というものの、言っていることへの、無意識の不信につながった。

 開票速報番組は、テレビ各社の無意味な工夫がほほえましいが、途中で一、二回見れば、もう充分。どうせ朝刊で確定した一覧が出るしね。
 日付が変わった頃だったか、首相の菅さんの敗北記者会見が始まって、これは見てしまった。

 へたくそですね。広報担当がついていないのかな。
 最初に、支持してくれた人も批判してくれた人も含めて、有権者に御礼を、と言ったのはいい考え方ですが、御礼を云々、のあとには「ありがとうございました」、を、お詫びを云々、のあとには「すみませんでした」などの、ちゃんとした言葉が続けられるほうが正解でしょう。
 かつての橋本龍太郎さんみたいにテカテカ顔での敗北会見でないのは救われたものの、テレビカメラはいろんなアングルからのアップでショットを抜くから、髭はちゃんと剃って、鼻毛はきれいに処理して、負けたといっても疲れた顔はみせず、さわやかな誠実さでやったほうがいい。

 まず、財務大臣としての経験からギリシア問題に直面して、日本の財政への危機感を持った、という消費税発言への言い訳から入ったが、これも、民主党という政治母体の未熟さを強調してしまった。
 財務大臣をやっていなければ、政治家として、財政への危機感は持たなかったのか、ということになる。鳩山さんの、普天間問題を勉強してみてよくわかった、という稚拙さに近い。
 菅さんには、少し期待していたのですけれどね。

 記者会見で、最初に質問したのが、ニコニコ動画の記者だったのは、何か時代を象徴する気がした。質問があれば、と始まって、大マスコミが一瞬間をおいているのか、牽制し合っているのか、すぐに質問がとばなかったところに、遠慮なくニコ動さんが手を挙げた。
 「インターネット・ジャーナリスト」は、かつてなら、記者会見の会場に入れてさえもらえなかっただろう。

 記者会見の最後の質問くらいだったか、「民主党はどういう国をつくりたいのか」と訊かれて、菅さんは、「生活第一」というスローガンは変わらない、とか、「国民主権」「政治主導」といったことを繰り返していた。
 まったく、答えになっていない。それは、「どういう国をつくりたいのか」という「ビジョン」ではない。システムの問題である。
 このあたりに、インパクトのなさ、つまり、期待されたほどの魅力のなさが、典型的にあらわれている。

 記者会見の中では、やたらに野党に秋波を送っていた。
 それはしかたないのかもしれない。過半数がとれず、またもや不幸な、ねじれ国会である。
 話し合いで合意しながら、いい方向に進むのなら理想だけれど、さて、雲行きはあやしい。小沢さんが、次の検察審査会で、ふたたび不起訴不当にならなかったら、またよみがえって政局にすることだろう。
 大連立なのか、再編なのか、いずれにしても、日本は、なかなか先へ進めない。

 別に民主党さんの政策を支持しているわけではないが、せっかく政権交代したのだから、ちょっとは気の利いたことをやってみてよ、と、多くの人が期待したはずなのだけれど、ぐずぐずと煮え切らないまま選挙をやって、フタを開けてみれば、思わぬ亡霊のような小泉チルドレンのおばちゃんたちばかりが、やたらに復活していた、というのは、なんだかねえ。
   
ラベル:民主党 菅直人
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2010年06月18日

上弦の月は、吉祥文様?!

旧暦五月七日 己亥(つちのとい)

「上弦の月は、これからふくらんでいく月のことや、って言うてたよ」
「誰が?」
「遠藤周作の奥さんが」
「……」

 いや、まあ、もちろん、正しいのです。
 上弦の月は、新月と満月の中間だから、満月に向かって膨らんでいく。しぼんでいったらおかしい。それは下弦の月でしかない。

 上弦の月、の「上弦」という表現は、弓の弦、つまり「つる」が上にある弓の形を意味する、と思ってきた。
 半円形、半分の月のカタチを、ピンとつるを張った弓に見立てるわけですね。
 で、そこで「上弦」といえば、半円の上がピンと張っている側だし、下弦といえば、弦が下側で張っていることになるはずである。
 では、月が東から昇り始めて、西に沈むまで、どの時点で上弦、下弦というかたちを判断するのか、昇り始めに上弦だったとしても、沈む時には下弦になる。弦の位置は、いつ見るの?! というのが、ずっと疑問だった。

 そんなことを、よく言っていたので、親切に教えてくれたのである。
 何かで読んだのでしょう。
 ラジオかテレビかな。
 で、
「いや、それは、あたりまえで…」と言いかけると、ムッ、とされてしまった。
 自信をもって言ったことを否定されるとムッとするのは、たいてい、中途半端に頭がいいか、中途半端に頭が悪い人である(謝)。

 こんなことは、きまりごとがあるはずなので、早くちゃんと確かめておけばよかったなと、あらためて『国語大辞典』(尚学図書編集/小学館)を引いてみた。

【上弦】陰暦で七日頃の月。右半円状に、西半分が輝いてみえる月。新月と次の満月の中間の頃。上(かみ)の弓張り。⇔下弦《季・秋》

 季語としては秋になる。やはり、月は秋。
 だけど、これから膨らんでいく月は、春でもふさわしいような気もする。
 ともあれ、なんとなく、わかったような気にさせる、辞典特有の表現。
 試験問題なら正解かもしれないけれど、実社会では通じない解答ですね。
 で、思いついて、いつもの『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)を引いてみる。
 「月名の由来」という項目の中に「上弦・七日月」とあった。

 説明としては、まず、上記と同様のことが記してあって、それに続いて

 上弦の月名だが、月の入りのとき、弓を張ったような形に月が見えるところから、この名がある。また、上弦の月・上の弓張り・玉鉤(ぎょっこう)ともいう。玉鉤は、玉で作ったかぎのこと(古代中国で、儀式のとき革帯をとめた)。また下弦の月と同じように弦月(ゆみはり)・恒月(ゆみはり)とも書く。ほかに、半月・破鏡の異名もある。
日本のような北半球では、上弦の月は必ず右側が明るい半月、下弦は左側が明るい半月となる。したがって、山を射るかたちで沈む月は上弦である。上弦の月は正午頃昇り、日没頃南中し、夜半に沈む。

とある。
 そうか、旧暦は月のこよみですからね。
 さっさと、これを調べてみておけばよかった。
 沈む時に「上弦」のかたちになるのだ。

 もっとも、「上弦」という言葉を、上につるがあるかたち、と思いこんでしまっていたけれど、これも、アタマが固いようである。
 上弦、下弦の「上・下」は、どうも弦の位置の上下ではないらしい。月齢が基準となっていた旧暦では、十五夜で満月、上弦の月は必ずその前だから月の前半、下弦は後半だった。つまり、月の上旬の弦月と、下旬の弦月、あるいは満月より上(かみ)の弦月と下(しも)の弦月というわけである。
 だから「上(かみ)の弓張り」なのだ。

 「遠藤周作の奥さん」は、祝儀物などの意匠に、上弦ではなく下弦の月が描かれているのをよくみかけて困りものだとも言っていたらしい。
 そういわれると、そうだ。みかけますね。
 上弦の月であれば、右側が丸く膨らんでいるはずである。
 上弦の月は、これから満月に向かっていく、つまりこれから満ちて、大きくなっていくから、めでたい。
 それに、月の地形による反射具合で、下弦より上弦の月のほうが明るいのだそうだ。
 下弦の月はしぼんでいく。これから、さらに欠けていくのである。これは、吉祥の文様としては、たしかに、いただけない。

 明日は上弦の月。
 どの時間に、どんなかたちにみえるのか。一度確かめなくては、と思っても、「五月雨」もようの空が続く。月は見えそうにないなあ。

 月の上弦、下弦、なんてあらためて意識させてくれたのは、吉田拓郎さんの「旅の宿」だった。目下、闘病中のようだけれど、どうなんでしょう。あらためて、上弦の月、となって復活してほしいものです。
   
posted by Office KONDO at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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