旧暦十一月三日 丁酉(ひのととり)
「 紙面の信頼喪失 強い危機感 」
こんな見出しで、新聞に、新聞についての記事が載っていた。
在阪の各社新聞記者による「ジャーナリズム研究関西の会」という集まりがあるらしい。検索しても情報が出てこないから、対外的な活動は、ほとんどないのだろう。
おおげさな名称のわりに、よくある話として、案外、ただの飲み会に近いものなのかもしれない(笑)。
その60周年記念の催しとして「 いま新聞が問われているもの 3紙編集局長と語る 」というシンポジウムが開かれた、という記事。
在阪、というと、在大阪、と思ってしまうのだけれど、神戸新聞の編集局長と、毎日新聞、朝日新聞の各大阪編集局長がパネリストを務めた、とあった。
サンケイさんや読売さんは、一緒にやれなかったのかな。
記事が載っていたのは京都新聞である。神戸新聞と京都新聞は提携しているはずだし、「関西」の会、という団体名だけれど、みんな、参加していないのだろうか。
すみません、あいかわらず、重箱の隅をつついてしまって(笑)。
ジャーナリズムの先頭に立つはずの新聞で、現場のブンヤさんや、指揮官である局長が、今、どんな意識で社会と向き合っているのか、そこには強い関心がある。事前に知っていて時間があれば聴きに行ってみたかったとも思うが、内輪の集まりで公開はしていなかったのかもしれない。
さて、会場は、どこまで熱気にあふれていたのだろう。
パネリストの所属三紙の紙面では、ひょっとして要約くらい載せたのかもしれないが、どれも購読していない。新聞社自体が催したわけではないから、新聞週間のなんとか、みたいに紙面を割くことは、もちろんないだろう。
いずれにせよ、新聞紙上で、すべての議論内容を載せるようなことは無理だろうし、本気で「将来の新聞の在り方を議論」したのなら、その全文をインターネットで公開してもよかったのではないか。
ネットなら、それができるし、印刷媒体と違って、簡単である。
10日に開催されて、この記事が15日だったから、それまでに速報くらいは可能だけれど、まったく気配はない。
ということは、身のまわりで活用できる媒体の特色を理解して利用するという発想はなく、使いこなせてもいない、ということと、もうひとつには、その気がない、ということが想像できる。
つまり、テーマがおおげさに啖呵をきっているわりには、本気でなんとかしたいと考えたわけではなく、「 危機感を持っている、という自分たちの知性 」への自己満足にすぎない、ということなのだ。
記事によると、
・・・ 「記事にわかりやすい日本語を使ってこなかった」(毎日) 「コラムをはじめ、小難しい書き方が『どの新聞も同じ』『えらそう』などのイメージになっている」(神戸)との率直な反省もあった。・・・
らしいが、そんなことよりも、ただ、「記事を書く」という仕事をしているだけで、伝えようという意識、なぜ伝えなければならないか、という、まさに「ジャーナリズム」がないことに問題があるだけなのではないのか。ルーチンワークで書かれた記事に、読者は魅力を感じない。
・・・「家族や職場でも他人との関係が希薄な『私民』増加が新聞離れを加速している」(毎日)といった分析・・・
と、読み手のせいにしているけれど、媒体環境の変化の中で、むしろ、新聞の側が、その『私民』と呼んで、さげすんでいる、「市民」から離れていっているのである。
「『えらそう』などのイメージになっている」と言っているのは、まさに、そのとおりである(笑)。
若い記者さんたちは、あまりそんなことはなくなっているが、年輩のブンヤさんは、だいたい、アクが強くてえらそうである。
だけど、それはそれでいいと思う。それだけの仕事をすればいいのだ。だいいち、ヤクザや警察や政治家を相手に、いちいち腰が低くて、取材なんかできるわけがない。
ただし、新聞社だからと、社名の看板をかさにきて、えらそうにする記者は、最低である。
・・・「女性記者も増え、一部に負担が集中しないよう記者のライフサイクルを見直している」(朝日)などの実例を・・・
なんて、ますますサラリーマン化するようなことを、強調しているのですねえ。
ジャーナリストに残業もへったくれもないでしょう。
新聞「休刊日」には、配達スタッフの負担を減らす、という理由がかろうじてあるけれど、記者稼業にライフサイクルなどとは笑わせる。
以前、テレビ東京のワールドビジネスサテライトで、元アエラの編集長さんだったと思う、過労で病気を経て、仕事と心中する気はないと、早くしてリタイア、田舎で自給自足的な農業中心だったか、生活を変えてゆったり暮らしている、というような話が紹介されていた。
あれには、腹が立った。
ジャーナリストだったら、仕事と心中しろよ(怒)。
ロハスでもなんでもいいけれど、何を、のどかに自分を愛しているのか。それなら、最初からジャーナリストになるな、と思ってしまう(激)。
いやいや、冷静に、シンポジウム記事に戻りましょう。その末尾は、
・・・ このほか毎日新聞の共同通信加盟、記者クラブ制度や若手記者像など話題は多岐に渡った。・・・
と、おさめてあった。
さらっ、と、まとめてしまってあるけれど(笑)、最大のテーマ「記者クラブ」については、どんな「反省」が出たのでしょう。
「記者クラブ」は、少なくとも「ジャーナリズム」を育てる役には立たないだろう。
もちろん、皆が皆ではないとしても、今の新聞記者さんの最大の欠陥は、記者クラブをあたりまえ、と思ってしまっているところにある。
横並びで記事をつくる。
みずから、情報のウラをとらない。
ここのところが、本当に変われば、
・・・共通していたのは紙面への信頼が失われているのではないかとの危機感・・・
など、いちいち心配する必要はなくなる。
繰り返してしまうけれど、このシンポジウムに、いったいどれだけの、ほんとうの危機感があったのか、と考えさせられる。
「危機感を持っている」と、テーマを主張することで、一定の役割を果たしたような満足感に陥ることが「知識人」にとっての常道、そう思えてならない。
そこのところにこそ、最大の危機があると思うのだけれど。