2011年01月15日

小正月、そしてセンター試験。

旧暦十二月十二日 庚午(かのえうま)

 1月15日。新暦での小正月。
 今日は小豆粥ですね。

 「小正月」という呼び方が生まれたのは、いつ頃からなのだろう。
 簡単な古語辞典をみると、「正月(しゃうぐわつ)」はあるが、「小正月」はない。
『平安時代の儀礼と歳事』(山中裕・鈴木一雄編集/至文堂)といったテキストをみても、小正月にあたるような年中行事がない。「源氏物語」に描かれた宮中にも、出てこなかったのではないか。

 じつは小正月のほうが元旦よりも重要で、むしろ元旦が「小正月」で、小正月のほうが「大正月」だった、とは、よくいわれる。
 このあたりを言い始めると、まあ、「元旦」すなわち「一年の始まり」は、もともと民族によって違った、ということもあり、冬至であったり、収穫の秋だったり、家畜出産の春だったりと、きりがないのだけれど、旧暦でいえば小正月の十五日は、月齢では十五夜。満月のこの日が重視されたのはよくわかる。

 一月十五日を年中行事にあてることは、中国から伝わってきた。
 これは古い。だから、古語辞典でも「小正月」はなくても、「上元(じゃうげん)」は「陰暦正月十五日の称」(『岩波古語辞典増補版』)として載っている。
 中国では、この日が「元宵節(げんしょうせつ)」「上元節(じょうげんせつ)」となる。

 春節(旧正月)の最後を祝う華やかな行事。唐代から始まる。この夜を<元宵>と言い、数日間にわたって、家々の門や道路に美しい灯籠、走馬灯を飾り、竜や獅子、花などを形どった灯籠(行灯)を持って町を行進する。南方の<竜灯>(蛇踊り)、北方の<氷灯>も有名。<灯節><観灯会>とも言う。唐代以前には<祈蚕>の行事が行われていた。(『大漢語林』鎌田正・米山寅太郎/大修館書店)

 中元が七月十五日、下元が十月十五日ですね。
 ここに出てくる「祈蚕」という行事が何なのか、興味を惹かれるものの、今、ゆっくり調べている時間がありません(苦)。

 日本の年中行事で圧倒的に維持されているのが「正月」と「盆」だが、それに対比されるのが、中国でいえば「上元」と「中秋」だそうである。

 上元と中秋において、一致していることの一つは、この日、女性が外出することである。
 たとえば、江蘇省蘇州では、元夕、つまり正月十五日の夜、婦女相引き連れて市街を遊行し、橋三つを超えて帰る。こうすると、一年中病気に罹らないそうである。これを走三橋という。(『正月の来た道』大林太良/小学館)
 
小正月が「女正月」と呼ばれていろいろな風習が残っていたりするのも、このあたりから日本流にアレンジされてきたのかもしれない。

 上元は、当然だが、朝鮮にも伝わっている。
 『東国歳時記』には「上元」の項があり、

 薬飯 炊いた糯(もち)米に棗(なつめ)、栗、胡麻油、蜂蜜、醤油などを混ぜ合わせ、松の実(五葉松の実)を入れて再び蒸す。これを名づけて薬飯(または薬食)という。上元(正月十五日)のときの佳い時食であるばかりでなく、祭祀にも供え物として用いる。けだしこれは、新羅時代からの旧俗である。(『朝鮮歳時記』東洋文庫/平凡社)
 また、
 赤豆粥 正月十五日の前日、赤い小豆の粥をつくって食べる。かんがうるに、『荊楚歳時記』に、「州里の風俗に、門を祭るに先んじて、柳の枝を門に挿し、豆粥に箸を挿してこれを祭る」と書いており、今の風俗に赤豆粥を食するのはこれに似ている。」
とある。(同上)

 うーっ、薬飯、食ってみたい。韓国料理店なんかで出していないかな。

 「小正月」が、かつては「成人の日」として祝日に指定されていたため、かろうじて年中行事が保たれていたものの、ハッピーマンデー制度という、まやかしの「余暇」づくりのおかげで、すっかり影が薄くなってしまったことには、何度かふれた。

小正月が消えていく?
http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/112649329.html?1264365678
すっかり消えた小正月
http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/139279445.html

 今も、余暇の有効利用などといって、休日分散化のためにゴールデンウイークを地域ごとにずらす、などと馬鹿な検討をあきらめてはいないようで、いまだに労力をさいているらしいけれど、愚かとしかいいようがない。
 「国民祝日」のひとつひとつの成立には賛否両論あるかもしれないけれど、一応の背景を持ち、文化的に利用されていた祝日を、ただ連休をつくるためだけにあっちに寄せ集め、こっちに寄せ集めるのなら、最初から、「国民春休み」でも「秋の休日週間」でも、なんだってつくればいい。
 へんに歴史や時間に小細工して、愚行にむりやり「裏づけ」をくっつけようとするのは、政治家が小役人と変わらないことを示す、アリバイづくりの発想である。

 休日をいじくることで簡単に「余暇」をまとめて消費させることが可能なのは、せいぜい大企業と公務員くらいのものだ。根本的な労働制度のしくみで保証されないかぎり、実質的な「余暇」など増えるわけがない。
 休日制度を柔軟に、として、地域ごとに、などというなら、都道府県別に、その府県の三大祭の日でも、まさに県の「祭日」にして、学校も企業も休みにすればいい。地域振興の最たるものだ。
 だいたい「観光」というのは、その土地の「光を観る」ことだ。地域それぞれの歴史や伝統を地元の人たちが大切にできていてこそ、観光に訪れる客にとって大きな価値となる。

 もともとの休日を、ごちゃごちゃ動かそう、なんていうところで「柔軟な発想」の押しつけをしているより、もっとやることはある。

 今年はこの「小正月」に「大学入試センター試験」が重なった。センター試験と小正月は関係ないけれど、試験はいつも、だいたいこの時期。
 かわいそうでしょう!
 こんなにリスクの大きい季節に、なんでわざわざ、一生を左右するような試験を実施するのか。せめて12月の前半とか、まあ、観光シーズンをはずせばいいのではないか。
 早く進路が決まると、あとは勉強しなくなるからというのだろうか。
 合格しても、失敗しても、年が明けてから、時間の余裕をもって先の進路をみつめ直せるほうがいいのではないか。

 必ずといっていいほど雪が降って交通が乱れ、風邪やインフルエンザが流行し、それでなくてもコンディションの管理が難しい、最も障害の生じやすい季節に、わかっていて、人生のサイコロを振らせるのは、ほとんど虐めとしかみえない。
 まさに、「戦前感覚?!」の根性主義。
 教育関係者は、なぜ、こんなことを、ずっと認めているのだろう。

 企業も大学も同じである。
 じつは相手のことを考えない。
 学生も消費者も、ただの無機的マーケットとしかみていないのである。
 だから、大学は、無反省に、ただ学生が勉強しないとだけ嘆き、日本の企業は世界に出遅れてあわてた。
 日本企業にマーケットインが欠けていた、と近頃よく言われる。
 要は、相手の立場に立つ、そのあたりまえの姿勢がなかっただけのことだ。
   
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2011年01月09日

フォークの女王、ジョーン・バエズ。

旧暦十二月六日 甲子(きのえね)

 フォークの女王、といっても「大食い選手権優勝者」でも「パスタの食べ方がきれいな女性ナンバーワン」でもありません。
 フォーク、といえば「フォーク・ソング」ですね。
 ボブ・ディラン、とか、ピート・シーガー、なんていう名前になんとなく聞き覚えがあるのは、今の日本で何歳代くらいまでになるのだろう。

 今日、1月9日は、ジョーン・バエズさんの生まれた日。
 親の誕生日さえきちんと覚えていない人間が、なぜ外国の歌手の誕生日まで知っているか、というと、追っかけでもなんでもなくて、一所懸命、資料調べをして、原稿を書いたからです。(笑)

 21世紀に入って、もう、一割が消費されたけれど、世紀をまたぐ前には、ミレニアム、といってみんな騒いでいた。
 まさか、日本の「失われた十年」が、二十年になるとは誰も思っていなかったでしょうね。

 新しい千年紀を前に、あちこちで盛り上がりをみせたけれど、その頃、これまでにもいろいろな著書を出しておられる大先輩が、さすがの餅は餅屋、終わりゆく20世紀のカルチャーを振り返って、多くの人にニックネームで呼ばれた偉人を集めて振り返るという本を企画、手伝わないかと声をかけていただいた。
 真珠王・御木本幸吉や、鉄鋼王・カーネギーから、流通の革命児・中内功(正確には文字のつくりが力でなく刀)、銀幕の妖精・オードリーヘップバーン、さらには、サッチモや東京ローズ、ジュリーにいたるまで、十数人を担当することになった。

 いやあ、たいへんだったけれど、面白かった。
 京都の図書館では、特に雑誌資料などがまったく無いので、生駒に近いようなあたりに、たしか新設移転して間もなかった大阪の中央図書館まで遠征、カンヅメで資料調べをしてコピーをとり、制限一杯まで本を借りて帰る、という一日仕事を何度も繰り返した。

 一冊の本にでもなる生涯を持つ人たちの人生を、まるで見てきたように(笑)、二頁の見開きで凝縮するというのは、じつにむずかしい。原稿が短くなるほど、一行のニュアンスや、ひと文字の間違いが決定的な影響を及ぼすことになる。

 で、じつは、「フォークの女王」はボツになった原稿です。(笑)
 掲載人物を、百人ちょうどでまとめなければならなかったので、あまってしまって日の目をみなかった。(泣)
 とはいえ、版権はちゃんと出版社にありますから(『ニックネーム20世紀の100人』池田良孝編著/東京書籍)、このブログからでも、版元に無断でコピペすると、著作権法にふれます。(注)


フォークの女王
コンサートに圧力がかかった反戦・平和の旗手
ジョーン・バエズ

 「あれっ、なんだか変だな」と、テレビを見ていた多くの人が思った。一九六七年の一月、ジョーン・バエズが初めて来日したときのコンサート中継である。バエズが何か語っているはずなのに、そばにいる通訳は何も言わない。確か「ベトナム」と言ったはずなのに、その言葉はまったく通訳された日本語に出てこない。会場に、なんとなくぎくしゃくとした雰囲気が漂うのが、テレビ画面を通じても感じられた。
 当時"駅前留学"もなかったし、今ほど多くの日本人が英語を理解したわけでもないが、このことは、やはり後で問題になった。通訳は、反戦歌『サイゴンの花嫁』や、原爆を歌った『雨を汚したのは誰』といった歌の内容説明、長崎・広島についてのバエズの発言をまったく伝えないで、さらに「ベトナム戦争に使う税金は払わない」といった話を「アメリカでは税金が高い」と意図的に「誤訳」していたのだ。
 この時の通訳をつとめたディスクジョッキー、高崎一郎氏は、のちに「アメリカ大使館のハロルド・クーパーと名乗る男」から圧力がかかったと語り、アメリカ大使館はその名前の館員はいないとコメントしている。
 滞在中、こういった類のことがいろいろ続いて、心労からバエズは宿舎で嘔吐し、ヒロシマのカキにあたったという話が流れた。バエズ自身は、牡蠣は嫌いで食べなかったのに…。 こうして、バエズの最初の日本体験に愉快な思い出は少なかったが、けっしてそればかりではないことは、その後も幾度か来日コンサートを行なったことで示してくれている。
 バエズ初来日と同じ年の秋には、ピート・シーガーも再来日して関西の平和集会で歌ったりしている。当時ベトナム戦争は激化への道をたどり、日本でも反戦運動が盛り上がっていた。五九年のニューポート・フォーク・フェスティバルで鮮烈にデビューして以来、たちまちにして人々の心をとらえ、公民権運動ではキング牧師とともに三五万人をリードして『勝利を我等に』を歌ってきた「反戦・平和」を象徴する「フォークの女王」が、アメリカ政府にとって見過ごすことのできない存在であったことは確かといえる。
 日本では、フォーク・ソングの衰退とともに忘れられた存在のようになっているが、バエズは、その後もベトナム難民の救援や、ワレサ議長やサハロフ博士との会見など、精力的に世界を飛び回って活動を続けてきた。もちろん歌うことも忘れてはいない。九七年発売のCD『gone from danger』をみると、トレードマークだった長い黒髪はカットし、以前よりふっくらとしてみえる。あの高く澄んだ声も少しアルトになったようだ。しかし「五歳になる頃には、おぼろげながらも、私は世界のどこかには毎晩おなかを空かせたままベッドに入る子供がいるということに気づいていた」と自伝で語った人権と平和への意識は、少しも変わっていないことだろう。

●フォーク・シンガー。一九四一年、ニューヨーク州スタッテンアイランドに生まれる。一九五九年の第一回ニュー・ポート・フォーク・フェスティバルで、最初はバック・アップ・シンガーとして登場しながら鮮烈なソプラノで絶賛を浴び、たちまち「フォークの女王」と呼ばれるようになった。ベトナム反戦運動の高まりの中で象徴的な存在となり、幾度か来日した。ちなみに、日本で「キャンパス・フォークの女王」と呼ばれた森山良子が、バエズ初来日の頃、レコードデビューしている。

 バエズさんは、宵ゑびすの生まれなんですね。アメリカでは関係ないだろうけれど。
 今日で70歳。おお! 古稀なんだ。
 初来日は、たしか1月11日となっていたのではなかったか。ゑべっさんでは、残り福。あ、これも、関係ありませんが。

 あらためまして、あけましておめでとうございます。
 ブログをご覧いただいているみなさんに、今頃の新年で深謝です。
 年末はアクシデント続きであたふたと過ごし、今年もお正月の三が日は年賀状の宛名書きにあけくれました。お出しした方々には、いつもながら遅いごあいさつでお詫びを申し上げます。
 謹賀新年。今年もどうぞよろしくお願いいたします。それぞれのかたにとって、よい一年が訪れますように。
   
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2010年12月15日

変わる京都の商業集積/参 近鉄百貨店からヨドバシカメラへ

旧暦十一月十日 己亥(つちのとい)

 ちょうど、シャープがガラパゴスの予約販売を開始した先週十日、京都駅前にオープンしてひと月あまりになる「ヨドバシカメラ マルチメディア京都」を初めてのぞいてみた。
 近鉄跡地にヨドバシ、で、ほかにもテナントが入るということで、そうか「ヨドバシビル」ということなのだ、と想像していたが、行ってみると「ヨドバシモール」か「ヨドバシデパート」といった感じ。
 もともと百貨店の跡地だから、広い。

 地上8階、地下2階。オープンのさらにひと月前くらいに出ていた日経MJの記事では、建物の延べ床面積が約7万3千平方メートル、地下1階と地上1〜3階の直営部分の売場面積が約2万1千平方メートルとしていた。階数の比率では直営面積の数字がちょっと少ないという気がするのは、バックヤードか何かで、やや狭まっているのだろうか。
 売上げは、初年度で4百億円を目指すということだから、業態は違うけれど、09年度の百貨店ランキングでの全国40位台なかばにあたる数字。今年、撤退した四条河原町阪急の跡地に、来年進出してくる丸井の新宿店が(行ったことはないけれど)350億円あまりというから、結構強気なのでしょうね。
 ちなみに、百貨店では、京都の高島屋が9百億円強、大丸が7百億円強、伊勢丹が6百5十億円弱、となっている。

 しかも、同じJRの大阪駅前にヨドバシ梅田店があり、ここはなんと、年間約1千億円を売り上げている! のだそうだ。直通でつながる路線の、どちらもメインターミナルだから、やはり、いくらかは共食いするでしょう。
 いやはや、強気です。だけど、定着すれば、スケール的には充分可能、という印象はありますね。

 この場所にもともとあった「京都近鉄百貨店」は、「プラッツ近鉄」となったあと07年の春には閉鎖されたが、それまで、おそらく2百億円前後だったのではないか。
 ざっくばらんというか、四条通の高島屋や大丸と違って、まあ、雪駄履きでぶらぶらできる、といったような、気さくな百貨店だった。
 中二階のような妙なスペースがあって、思わぬところにギャラリーがあったり、どこかしら面白い商業空間で、男性ファッションなんかも、おじさん向けのブランドが多かったし、なんというか、全体的に、とにかく庶民的な印象でしたね。
 撤退が決まる前のプラッツ近鉄には、無印良品や旭屋書店、ソフマップなどが入っていて、結構若者も集めていたし、地下のスーパーなんかも悪くなかったのではないかと思うのだけれど、最上階あたりの、自店直営のフロアは、いつも閑古鳥が鳴いていた。

 「京都近鉄百貨店」の前身は「丸物百貨店」だが、ウィキペディアによると、創業時には「京都物産館」といったのだそうだ。その「物」をとって丸で囲んだので「丸物」。なるほど、ネット時代の利点、名前のなぞがとけました。これはまず確かでしょう。
 そのウィキペディアによると、1977年に「京都近鉄百貨店」に改称されたそうだが、それまでの「キャッチコピー」が「FRONT KYOTOまるぶつ」だったというから、なかなかモダンなキャッチで押していたのですね。

 近鉄百貨店、の名残を感じさせるテナントとして、ヨドバシにも「コムサイズム」が入っていて、おお、なつかしや。継承しているのは、ここくらいかな。
 河原町のBALビル地下から、いつの間にか撤退した輸入玩具の「ボーネルンド」をみつけたのは意外だったけれど、ここに入るからBALを撤退したのではないと言っていた。もっとも、タイミング的にはちょうど入れ替わり。BALの地下では集客力が弱かったのだろう。ここのほうが目にはつきやすい。あとは客層と価格帯とのマッチングだろうけれど、遠くからでも集客できるネームバリューがどうなのでしょう。

 この、ヨドバシのマルチメディア館、店舗の印象は、とりあえず、広い。
 トイレが、大きな駅や劇場のように広い。
 レジカウンターもやたらと広く、カウンターの数も、それぞれに並ぶレジの数も多い。これは、百貨店などとはまったく違う。
 トイレもレジも、ありあまるほどの余裕があるのは、客にとってはゆったりする。おそらく、最大の混み具合のときの回転を想定した設定なのだろう。通常はレジもすべてに人員を配置しているわけではない。そのあたりのオペレーションをみてみたいものだけれど、わざわざ年末や正月に見に来る気はありません(笑)。

 電化製品はとにかく、品揃えがすごい。フロアの余裕ですね。
 これまでの京都の電器店の感覚からは、圧倒される。カメラ機材なんかも、ミニスタジオや除湿庫のようなプロ、セミプロ用品が、家電店のテレビや冷蔵庫のようにずらりとならんでいるのには驚いた。
 梅田店もちらっとのぞいたことがあったと思うのだけれど、こういう品揃えの印象が残っていない。どうだったかな。ただ、とにかく、客の数は、大阪のほうがはるかに多かった。

 最上階は、いわばレストラン街。やっぱりもう、構成は百貨店ですね。
 地下に文具店があって、シュレッダーのように家電の延長といえる商品は、これまたみたことがないほどずらりとならんでいたが、ビジネス文具的なものは、フロアが広いわりには品揃えが物足りなかった。リフィルなんかの多様さはない。やっぱり、少し専門外、というところなのだろうか。

 店員さんは寺町より愛想がいい。これは、同じ京都駅前、近くにある先輩進出店、ビッグカメラも同じ。ナショナルチェーンの人材教育システムによるところだろう。
 寺町に限らず、京都既存の電器店は、大型店でも、伝統的商店(笑)。愛想がよくない。もっとも人間くさいというか、無愛想でもなじみやすいようなところがあるのですけれどね。

 エスカレータが同じ乗り口から上下双方に行ける、並列式、とでもいうのだろうか、4列の昇降口が一箇所にまとまっているスタイルは、これもスペースのゆとりなのだろうけれど、新鮮だった。便利である。行ったら逆向きだった、という面倒がない。

 冒頭にふれた「本日登場」のガラパゴスは、そのエスカレーター昇降口のすぐ脇、両側に分かれて、ソニーの電子書籍リーダーと対置したコーナーがつくられていた。これはまたふれると長くなるので(笑)さておいて、ガラパゴスは予約販売のみだからか店員さんはつかず、カタログと電子看板だけ。ソニーのリーダーのほうは店員さんがいて、ぱらぱらだけれど、人が途切れずに話を訊いていた。
 ガラパゴスにはそれほど関心がないが、そのコーナーの背景の電子看板、いわゆるデジタルサイネージに少し興味をひかれた。

 畳一枚よりは小さい、70センチ×140センチくらいだろうか、縦長のディスプレイを三枚並べてワイドな壁状の画面をつくり、PRの映像を流している。
 こういったものは、かつてなら、いかにもディスプレイに宣伝映像を放映している、といった感じだったのが、大型の街頭映像のようで、スマートな印象だった。
 これに限らず、エレベータドアのサイド壁面など、電子看板の多用が目立っていた。双方向というわけでもないし、シンプルな映像看板で、デジタルサイネージとしての機能に驚かされる、といった活用はされていない感じだけれど、京都の既存店ではあまりみられなかったことだ。

 また、じつにやぼったく泥臭いデザインなのだけれど、フロアガイドが4カ国語で書かれているのは、あらためて、国際都市といいながら閉鎖的な、京都のビジネスを反省されられるところ。これは東京、大阪でのニーズ反映でしょうね。
 たとえば行政のホームページでも、京都市は最近ようやく4カ国語になったが、神戸市などでは7カ国語8言語対応である。

 ゲーム機の流れもあってか、玩具にチカラを入れるのは最近の家電量販店の流れのようだけれど、一画にガチャポンがずらり勢揃いした、コーナーというより、もう専門店というのか(笑)。数えなかったけれど、おそらく四、五百台は並んでいるのではないか、いわゆるカプセル玩具のフロアがあった。
 一週間で二百万円くらい売り上げるといっていた。あなどるなかれ。

 ファッションのテナントには、たとえばシューズや紳士服、スポーツ、といったジャンルでも品揃えやコンセプトの違う同業他社が入っていたりして、競合と補完ををしている感じ。ショッピングモールに近いものがある。
 ユニクロが入ったのは、最近の百貨店の動向に似ている。
 一方、地下の食品売場の横に百円ショップがあるところなどは、スーパーのノリだ。

 ひと足先に、ここよりさらに京都駅に近く、不便なホームに降りるとはいえ、一応、駅に「直通」でオープンしたビッグカメラは、なぜか酒まで自社で扱う、といったそれなりのオールインワンの店舗をめざしている感じだけれど、ヨドバシカメラは、テナントを活用してのオールインワンをめざしているといったところだろうか。
 ヨドバシは、家電フロアも、文具も、食品も、またテナントの部分でも、価格的に、事前に想像していたようには、ことに安いという印象はないけれど、とにかく品数の多さは、競争力をかなり後押しするだろう。目で見て選ぶという点では圧倒的に有利といえる。

 少なくとも、京都の既成の業界に与えるインパクトが、かなり大きいことは間違いない。
 うーん、いよいよ、寺町がまさに生き残れるかどうかは、風前の灯のようにさえ感じられてくる。

 東京では有楽町西武が閉店セールの真っ最中らしい。
 これほど大きな商業構造変化の波は、戦後、つまり今のような体制になって初めてなのではないだろうか。インターネットもからんで、業態や業種の既成概念は、捨てたほうがいい時代になりつつあるのだろう。
   
ラベル:繁華街 京都
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2010年12月03日

延坪島と、支離滅裂の民主党政権。

旧暦十月二十八日 丁亥(ひのとい)

 延坪島と書いてヨンビョンドと読むらしい。
 ウィキペディアによると、大延坪島(テヨンビョンド)と小延坪島(ソヨンビョンド)のふたつの島からなるそうだ。
 若干拡大した朝鮮半島が一頁だけ載っているような、よくある「世界総合地図帳」なんかで見ても、どこにあるのかわからない。

 島は「ド」なのですね。あの、韓国で一千万人を動員したといわれる映画の、タイトルとなった「シルミド」の漢字表記は、実尾島。
 そういえば、韓国ではどこまでがハングル化されているのだろう。
 北朝鮮は、正式国名もすべてがハングルらしい。

 それはともかくとして、北朝鮮軍が、その延坪島をいきなり砲撃したのは周知のことで、日本のテレビが相変わらずのワイドショー的ノリで、連日、現地や韓国本土からの「レポート」や「専門家の分析」を流し続けた。

 それにしても、北朝鮮の金王朝は、次々とひどいことをする。
 ついに、政治家や軍隊にではなく、あからさまに民家を破壊して、非軍人を殺傷した。
 もっとも、彼らの、人間の尊厳に対する想像力の無さは、すでに拉致問題で明らかではある。

 「軍事境界線」で長くへだてられ、国名が違うといっても、同胞だろう。
 そこに親兄弟、親戚がいてもおかしくないはずの、彼らにとって同国人、を、いきなり無差別に殺したのである。
 中東で、若者をそそのかして自爆させ、無抵抗の市民を無差別に殺している連中と同じ、無情、無感性の人非人、ひとでなしである。
 被害を受けた韓国内が冷静だとはいえ、「メッセージ」として市民を殺す、というのは、やはり、尋常なことではない。

    売り家と唐様で書く三代目

 こんな川柳を、記憶ではなんとなく学校で習ったような気がしている。けれど、考えてみると、教科書に載るものでもありませんねえ。
 初代は苦労して身を起こし財をなして、大店と富を築き上げた。二代目はまあまあ、なんとか、惰性というか慣性というか、受け継いだ威光の残りを食いつないできた。だけど三代目になると、さすがにそれも尽き、甘やかされてきた坊ちゃんには盛り返すチカラも無く、せいぜい身につけた、おしゃれな教養である唐様、つまり流行りの筆遣いで「売り家」と書いている。そんな意味だったと思う。

 まあ、金王朝の「ちび大将」と呼ばれているらしい三代目に、しゃれた当代の流行りが身についているとも見えないし、また、初代が努力して国を築き上げたとも思えないけれど、四代目の国家相続がないことだけは確かだろう。
 その時、かつてのルーマニアのチャウシェスク夫妻のような末路をたどるのか、中国共産党をたよって亡命するのか。
 ときどき日本のニュースに映像が流れる、あの朝鮮中央テレビの、やたら威勢のいい恫喝おばさんなんかも、無事では終わらないでしょうね。

 四日間にわたる米韓の合同軍事演習が終了したが、さすがに二代目も三代目も、平壌を10分でたたける位置にいる米空母ジョージ・ワシントンを前にして、ちょっかいをだすという無謀なことはしなかった。
 空母艦名のジョージ・ワシントンは、アメリカの初代大統領。
 うーん、やっぱり、二代目、三代目とは勢いが違う?
 ちなみに、その母港は横須賀。アメリカの軍艦だが、じつは日本の港に所属しているのだ。お恥ずかしいことに、今度の騒ぎまで知らなかった。でも、多くの人がそうではないだろうか。沖縄の実態もそうですね。

 野次馬としては、むしろ、金ちゃんがちょっかいを出したときに、米軍がどう反応するかを見たいな、という興味もなくはなかったけれど、北朝鮮が反撃されて死傷者が出るのは民間人、という可能性も高いから、まあ、無事に終了してよかった、というところでしょう。
 だけど、ごていねいなことに、まだ年内にもう一度米韓で合同演習をやることが予定されているらしいから、予断はゆるされない。
 中国にとっても、黄海は、日本の東京湾のようなもの。人民解放軍のいらだちは最高潮だったでしょう。

 かつて、ニクソン大統領下のアメリカは、チリのアジェンデ政権をクーデター工作で転覆させるという暴挙を行なっている。相手がこの金王朝なら、世界の誰も非難しないだろうけれど、今、そういった能力がないのは、目下話題のウィキリークスへの機密漏洩の状況をみていれば、納得できるのかもしれない。
 難民発生を避けたい、というのが、とりあえず、周辺国にとっての「戦々兢々」と考えれば、中国共産党政府が、裏工作で金王朝をひっくり返す、できれば無血転覆する、というのが、まあ中国支配下にはなっても、現状ではいちばん「まし」なシナリオかもしれない。
 だけど、みている限り、中国共産党にも、そういった細工をする能力はないのでしょうね。

 で、たしか今日3日から、今度は日米での合同軍事演習が行なわれる。そこに韓国が初めてオブザーバーで参加する。ジョージ・ワシントンも忙しいことだ。
 こちらはさすがに、黄海に展開などということはないけれど、日本海や東シナ海、太平洋と、あちこちでやるらしい。島嶼防衛を含む作戦、というのは、尖閣をにらんでいるわけですね。
 まあ、みんなで挑発しあってどうするの、と思うけれど。

 そんな、好戦的気分で盛り上がる「世論」に迎合しようと、民主党政権が打ち出したのが、「高校教育無償化の朝鮮学校への適用手続き停止」だった。
 それであたりまえ、みたいな風潮があるけれど、それはおかしい。

 北朝鮮を牛耳っているのが金王朝であり、その支配が朝鮮労働党の名のもとに行なわれていて、日本国内の朝鮮学校がその影響下にあるということもわからなくはないけれど、だからといって「特別扱いの仲間はずれ」として圧迫することは、太平洋戦争の際に、在米日本人が受けた扱い、また、在日中国人、在日朝鮮人が受けた扱いに通じる。
 関東大震災のときには、日本にいる中国人や朝鮮人がこれに乗じて暴動をおこすなどといって、理不尽に虐殺された。太平洋戦争末期においても、多くの人が拘束され、殺されている。
 考え方として通底する。たいして変わりはない。

 国会では、「『外交上の問題と教育の問題は別』としてきた政府見解と矛盾する」という質問に、「規定を変えていないのだから、外交上の問題とは切り分けている。そのうえで総理が日本国民の生命や身体を守るという観点から総合的に判断した」と文部科学大臣だか副大臣だかが説明したというけれど、それがほんとうなら、市川房枝さんに傾倒したという菅直人さんは、何を血迷ったのか。

 まあ、民主党は、責任政党というには政党の体をなさなくなってきた観があるけれど、かといって、今、噴出しているたくさんの問題を、すべてここまで悪化させて先送りしてきたのは自民党だから、まさか、そこに戻すのも最悪である。
 再編、しかないのでしょうね。
 連中に、できるかな。
 あの最低の政党群を、一度バラバラにして、まず、えらそうな二代目と、勘違いしているテレビ番組出身者を、ぜんぶ廃棄してみるところからはじめたいものです。
   
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2010年11月22日

変わる京都の商業集積/弐  ラクエ四条烏丸(下)

旧暦十月十七日 丙子(ひのえね) 小雪

 前回の続きです。長々とすみません(笑)。

 ラクエ四条烏丸オープン、に期待したのは、河原町から撤退した「丸善」がここに復活、とニュースになったからだった。
 文具のみ、とあった。
 それで充分!

 だけど、行ってみてがっくり。
 とても文具専門店、ではなかった。
 ファンシー文具、というところかな。考えてみたら、ここは「女性向け」なのです。
 それに、いかんせん、狭すぎる。かつての河原町丸善の文具フロアの奥にあった、お便りグッズと民芸文具のコーナーくらいのスペースしかない。

 ありし日の河原町丸善の文具フロアには、ほかの文具店ではなかなかみられない、機能やデザインにすぐれた文具類、はてはアウトドアグッズに近いようなものまで置いてあって、見ているだけでも面白かった。どちらかといえば、男性向けだったでしょうね。
 ラクエに開店した数坪の小規模なコーナー店舗では、品揃えに苦心するのも無理はないだろう。女性向けのレターグッズが中心、という感じだろうか。感覚的には、ひいき目に見て、ロフトや東急ハンズの文具売場のほんの一画だけ切り取った、という印象。
 これでは、わざわざ、ここに来ることはない。

 で、せめてものご祝儀に、こじゃれたマーキングクリップを買って、レジで、期待はずれだなあ、と、ぼやいたら、若い女性店員さんに「まだ、これからですから」と睨まれてしまった。
 これはオープンの記念品ですので、とおまけにつけてくれたメモ用紙は、雑誌売場の一番上に乗っている一冊みたいに、表紙がめくれあがっていた。意趣返しではないよね(笑)。

 PRの地味な「ラクエ四条烏丸」さん、施設や店舗は別段、地味なわけではないのだけれど、PRという点では、フロアガイドのリーフレットも、やっぱり印象は地味だ。(笑)
 よくあるA4サイズ三つ折り。長3の封筒に入る、あのサイズですね。
 もちろん、両面カラーで刷られているのだけれど、表紙はスミ1色。ごくシンプルに文字とロゴマークだけで仕立てている。ただし、どうやら、この面のスミは光沢のあるニス引きのようなインクを使っていて、中面の普通のスミによる黒とは違っている。さりげなく贅沢をしてある。
 だけど、それが活きていないように思える。
 ダークブラウンでまとめた裏面のほうが、地図がなければむしろ高級感がある。
 それと、PR全体に、ロゴマークとシンボルマークとの両方があるため、なんとなく使い分けに苦慮しているような感じだ。

 もやもや感は、ホームページでもそうだった。
 オープン当日、夜になってから、ホームページを検索してみたら、

Service Temporarily Unavailable
The server is temporarily unable to service your request due to maintenance downtime or capacity problems. Please try again later.

 あれ、なに?!
 店舗はオープンしていないのかな(苦笑)。

 さすがに十日経ってみてみると、一応、ひらいてはいるけれど、まだ、ちゃんと機能していないような印象を受ける。各店舗については店内写真とデータを並べた1頁だけしかない。あとは、それぞれのテナント独自のホームページに跳ぶだけ。

 さて、リアルに戻って、ビルの地下フロアに降りてみると、食品が多く、ファッションのわからないオジサンにも、少しみるものがあった(笑)。
 といっても、蜂蜜屋さんは、三条富小路の金市商店のほうがずっと専門的な印象だし、最近、やたらと増えた競合ショップと較べてどうだろう。ワインの店は店名に「やまざき」とついているのがヤマザキパンみたいで、添加物に不安をかきたてる(笑)。すみません。
 立地の良さと複合効果で、かなり勝負はできるでしょうね。

 中川政七商店、という、最近ときどき名前を耳にする、伝統工芸雑貨の店が入っていた。
 細辻伊兵衛や一澤信三郎、といったあたりのブランドイメージをねらっているのだろうか。
 入口のレジ脇に、おそらく購入者へのオープニングノベルティだろう、「京ふきん」のプレゼント、とあった。
 でも、どうも、奈良の手仕事をウリにしているショップのようですよね。
 ならば、奈良ふきん、でもなんでもいいし、奈良らしいものをノベルティにしたほうが、ショップイメージというか、コンセプトの上でも一貫性が保てるのではないかな。
 第一、京都の人間に、奈良から「京」ふきんプレゼントなんて言われても、違和感がある。

 伝統工芸のメッカのような京都で、まともに「京」と張り合うのは、それこそ「京都人」のややこしいプライドに(笑)火をつけるようなものだ。
 そのまま「奈良」を前面に出すほうが印象はいいだろう。「奈良」ブランドに自信を持って浸透させればいいのだ。平安京より古い都なのである。
 並んでいた吉野箸なんかも、なかなか魅力的である。まあ、買うなら、どうしても地元の市原商店あたりに行ってしまうでしょうけれどね。(謝)

 店の責任者っぽい、てきぱきと感じのいいきれいなおねえさんに、そんなことを喋っていたら、ここでも、白い目でみられてしまった。(笑)

 地下から通路に出られるのは、このあたりの商業ビルの便利なところだ。
 地下鉄四条駅改札前の「コトチカ」では、相変わらず、「クリスビードーナツ」に列ができていた。
 以前、大阪なんばのターミナルビルで、ベルギーワッフルの店の長い行列を見て驚いたけれど、その後たまに通ってもそんな行列は見なくなった、ここではいつまで続くのでしょう。こんなにホコリっぽい地下の人混みで、わざわざ長く並んで待つというのは、どうも群衆心理としか思えないのが、へそまがりなんでしょうねえ。

 ターミナルビルをのぞけば、京都の地下街ではおそらく初めての「地下2階」にできた商業施設? 「成城石井」をまだ見ていなかったので、これもついでにのぞいてみた。

 ここもまあ、狭いこと。(笑)
 京都の中心街では、地代と商圏人口を考えるとしかたないのでしょう。
 品出しをしていた店員さんに、
「競争相手はイカリスーパーあたり?」
と訊いたら、
「まあ、明治屋とか…」
と返ってきた。
 なるほど。価格帯はそのあたりかも。
 香辛料の棚に朝岡を探したら、マスコットとS&Bだった。
 マスコットの売値比較はしていないが、京都駅地下ポルタのジュピターと較べると、コーヒー豆なんかは1割くらい高い、といった印象だった。

 ラクエさんのフロアガイドの裏表紙の地図では、烏丸御池(烏丸姉小路)の「新風館」が、わざわざ強調してある。
 その理由は、フロアガイドの表紙をめくった中扉にポイントカードの入会案内があって、「共通カード」として勧誘してあるのですぐわかった。客層はまったく違うだろうけれど、いい試みですね。
 同じ烏丸通りで、地下鉄でひと駅離れているものの、歩いていける近場。人の流れがつながるならば理想的である。
 新風館は電電公社の跡地にできているから、あちらもNTT都市開発だったのかな。

 でも、できることなら、コトチカもココン烏丸も巻き込んで、連携してやってほしいものである。ほんとうは、ゼスト御池や、河原町ミーナ、四条河原町の阪急コトクロスビルあたりまで、いわゆる「田の字地区」で、「面」としての集客を考えればいいのにね。

 かつて阪急電車が河原町まで延伸するとき、四条通りの商店街が、客をとられるとして、地下道に商店街をひらくことに反対したというが、その結果の、ことに四条大宮方面の衰退はみごとなものだ。
 消費してくれるお客にとって、何が便利で、期待に応えるものであり、潜在需要を掘り起こすのか。
 徹底的なマーケティングがなされているようでいて、じつは、いつも、お客の立場に立って考える、ということはあまりできていないような気がしてしまう。それは、その分野でのスペシャリストではないから感じるだけのことなのだろうか。
   
ラベル:広告 繁華街 京都
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2010年11月19日

変わる京都の商業集積/壱   ラクエ四条烏丸(上)

旧暦十月十四日 癸酉(みずのととり)

 バスに乗り換えるため四条烏丸で地下鉄を降りたので、ストアデポに消耗文具を買いに寄り、あ、そうそう、と思い出して、先週オープンしたばかりの「ラクエ四条烏丸」をのぞいてみた。

 路面入口から入ってみると、意外と狭い。
 あちこち合併して、わけがわからなくなったけれど、確か、もともとは三和銀行で、かなり重厚な近代建築だった。その後、合併で何という銀行になったのだったか、取引が(笑)ないと、まったく覚えていない。すぐ西隣に、ずっと変わらず京都中央信用金庫があるのはわかっているのですけれどね。

 考えてみると、銀行にはバックヤードなんてないから、いつも、どこかの銀行に入るたびに見る、あの空間がほとんどすべての敷地面積なのだろう。
 同じ交差点の南側にある「ココン烏丸」のほうがずっと広い。あちらは、もと丸紅の社屋ビルだから、収容力が大きかったのでしょう。
 ラクエは、NTT都市開発株式会社の運営。NTTと聞いただけで、電電公社、という、かつてのお役所イメージを持ってしまうけれど、NTTさんも、こんなことまでやっているのですね。

 中に入るまでもなく、通りに面したショップを見るだけで、仕事を持ち可処分所得のある若い女性がターゲット、のイメージが強い。アラサーあたりでしょうか。そういえば、この商業ビル建設が決まったことを報せる新聞の記事などで、女性向けと明確に予告していたような気がする。たしかに、街ナカ消費の中心は、働く女性だろう。

 この「ラクエ四条烏丸」オープンの日、京都新聞の朝刊に、カラー全頁で告知広告が入っていたが、地味だった。(笑)
 あらためて見直してみた。三人の女性モデルが湖の桟橋の端っこのようなところでポーズをとっている。モデルのうち一人は日本人っぽい。二人は西洋系の顔立ちで、金髪と栗色かな。
 モデルさんが雰囲気を出しているので、ぱっと見、ヨーロピアンな印象を受けるけれど、背景はどうも大沢の池あたりではないかしら。池のまわりの木々の中途半端な枯れ具合や、向こうの山のくすんだ色から、ごく最近、いそいで撮ったような気がする。もっとも、よくみると向こう岸を一面覆っているのは蓮の葉のような…。というと春先?、だけど葉の落ちた冬枯れの木は見あたらないから、やっぱり、秋口?

 どうでもいいのだけれど、とりあえず、この地味な絵が(笑)、全頁紙面の上半部六割を占めて、入っているキャッチが

 「美人な、より道を。」

 ふうん・・・。
 ま、ま、感性的なキャッチは、人それぞれというか、クライアントが気に入ってくれればいいということで、四の五のいわずにおきましょう。

 ただ、ボディはねえ。
 ボディコピーは、アタマそろえのナリユキで、本文11行。タイトルがついている。

 「四条烏丸、ファッションの都へ。」

 なんだかなあ。
 四条烏丸がファッションの都になる、という意気込みなのだろうか。
 で、本文はつぎのように始まっていた。

 「とつぜんですが、より道、していますか。
  はりきって、新しい道を、歩くひとも。今は苦しいけど、いばらの道を、歩くひとも。
  にんげん歩くと、やっぱり疲れるから、より道が必要だと思うのです。

 このあたりで、思わず噴き出してしまった。ごめんなさい。
 あとに続く作文は中略とさせていただいて、おしまいの3行。

  こだわりのショップが、あなたの五感に語りかける、
  オトナのファッション・ランドマーク。
  あなたを美人にする、より道スポットになれたら、うれしいです。」

 じつは、出だしの3行に続く4行目に、

  そして、そのより道には元気のでる「出会い」があると、うれしい。

 と、あるから、もう一度重なる「うれしい」を、ここでは「うれしいです」としたのでしょうね。
 いやあ、みごとな、作文コピー。
 省略した、あいだの行は、もっとベタです。(笑)
 わざと、こういう素人っぽい雰囲気にしたのかな。

 新聞の全頁だから、広告代理店さんが扱っているだろうし、写真もモデル撮影の撮り下ろしだろうし、ならばコピーライターさんが入っているだろうと思うのだけれど、どうなんでしょう。
 くすんだ季節感の背景が大沢の池だとしたら、京都の代理店の仕事かな。
全頁のスペース取りは4面で右ページだったが、地元代理店でも、地元紙の左ページを押さえるということは難しいのでしょうね。
 今や新聞の経営は四苦八苦のようだし、どうせ記事もろくに読まれないのだったら、全頁広告なんかには、左ページを割高で売ればいいのに、と、いつも思う。

 抜群の立地とはいえ、そう先に消費拡大期待の持てない不況の中、たいへんな工費をかけて商業施設を新築したのだから、商圏調査は綿密に行なった上で、施設そのもののコンセプトを決めたはずだ。それをキーワードとして落とし込んだのが「美人な、より道。」ということになるのだろうけれど、何か、もやもやしますね。

 そのもやもや感は、ビルをのぞいてみて、テナント構成にもなんとなく感じられた。
 女性ファッションがメインですから、まあ、こちらにはセンスも価格も理解できないところは多いのですけれどね。(悩)
 4フロア30軒あまりの中に、ランジェリーショップが2軒も入っていて、そのひとつは、シロートのオトコには、なんだか祇園か大阪キタの新地あたりのお姉さんがた御用達といったふうにみえて、前を通るだけで、ギョッと引いてしまったけれど、烏丸オフィス街のOLさんたちは、ミニスカやパンツスーツの下にあんなのを履いているのだろうか。それとも勝負用?

 全体の不統一な印象は、なんとなく、数年でほとんどのテナントが入れ替わった「ゼスト御池」を思い出させる。まあ、ここは、通行量が圧倒的に違う強みはあるけれど。
 カフェを併設した生活雑貨のショップで訊いてみたら、出足は「かなり渋い」と苦笑していた。いい感じのお兄さん、頑張ってほしいものだ。
 ヴィンテージの家具や食器を売る店では、若者がティーカップを買っていた。一部の作家もの意外はすべてアンティークなのだそうだが、おじさんは、つい、この値段なら新品のお気に入りのほうがいいや、と思ってしまうのが貧乏性なのだろうか。(笑)

 で、このラクエさんがオープンするというので、ちょっと期待したのは、河原町から撤退した、あの「丸善」さんが復活する、とニュースになったからだった。

 いつもながらだけれど、これ以上長くなっては、また、ヒンシュクをかうこと必定なので、とりあえず、to be continued !(謝)
   
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2010年11月11日

いつかはなくなる国境?

旧暦十一月十一日 乙丑(きのとうし)

 ここのところ、マスコミは、例の尖閣諸島での漁船衝突事件での録画「流出」で、海上保安庁の職員が名乗り出た話題で持ちきりである。
 四十代のいいおじさんだから、おちゃらけてちょっとネットに流してみた、というわけではないはずだ。事前に読売新聞記者の直接取材に応じていたというから、いわゆる現代用語の「確信犯」だろう。読売新聞の記者は、いつ、どう記事にするつもりだったのか、あるいは半信半疑だったのか。
 よくサスペンス映画なんかであるように、マスコミに告発する、というのも、結構難しいものだとよくわかる。第一、今の記者さんたちの多くは不勉強だし、使命感に欠けているしね。
(※ 誤報、すみません。読売新聞ではなくて、読売テレビでした。ユーチューブに放送記者当人の話がアップされているようです。11/12)

 これから、いろいろとまた中途半端な情報が出てくるだろうけれど、罪に問う、というのは、なかなか難しいのではないだろうか。せいぜい「守秘義務違反」にあたるかどうかで、それも微罪がいいところではないか。
 だいたい「情報公開」を強く主張してきた民主党さんが、最初に「ビデオがある」なんて口にしながら隠すから、ややこしくなったのですね。
 ふつうに見せていればいいものを、変に隠すから、中国共産党政府も、見ないうちから「捏造だろう」などと反撥する。おかげで、みなさん、今、きまり悪そうではありませんか。(笑)
 あの程度の状況録画だとしたら、民主党政権の、「公開したら両国関係をこじらせる」というあの姿勢は、相手を、よほどわからずやだと馬鹿にしたものということになる。

 まあ、そんなことより、ネーミングも仕事のひとつである身としては、わざわざつけられた投稿ネーム? 「sengoku38」の、「38」の意味が気になるのですが。(笑)
 仙石さんパー、だとか、中国語で「忘八」がワンパーで、それにひっかけているとか、かの2ちゃんねるでは(!)、いろいろな説が飛び交っているようだ。

 これだけ「尖閣」が話題になってしまったおかげで、世間は、今さらのように「国境」をめぐって、「弱腰外交だ!」などと喧(かまびす)しい。
 「弱腰外交」という言い方は、その頃を見聞きして知っているわけではないけれど、太平洋戦争前にも流行った言葉らしい。まあ、第二次大戦の勃発前、どこの国でもそうだったでしょうけれど。
 日本も、日露戦争以来、国民は戦争をしたら勝つものだと思いこんでいた。続いてきた綱渡りのあやうい勝利を絶対的な国力だと信じていて、外交で引いてはならないという「世論」だか「輿論」だかが圧倒的主流だった。

 今の民主党政権の外交を言うなら、弱腰外交というより、ただの「無策外交」にすぎないでしょう。
 もともと意見がばらばらの党内が、政権を取ったときに、どう内閣を支えて、支持の拡大と政権安定に寄与していくかなど考えてもいなかっただろうから、みんな思いつきで言いたいことを言っているだけである。
 スタンスが定まっていない、つまり、基本的な大局観を確立していなかった、ということはもとより、執政のための「学習」が追いついていない、という印象しかない。

 日本の財政の、先進国最大の借金も、中途半端にしてきた国境問題も、世界貿易における開国対策も、ま、もともとは、すべてここまでの自民党政権がツケをまわしてきたといえばそれまでではあるけれど、それを解決していく期待によって「チェンジ」となったのは、オバマさんと同じなのだから、やっぱり「なんとかして」くれなければねということになるでしょう。

 尖閣! が、ぶり返して、みんなもう忘れてしまったけれど、じつは、北方四島にメドベージェフ君が訪れたということのほうが気になっている。
 尖閣や竹島は、近々でみればだいたいどちらに分があるか、みたいな歴史的検証もある程度できるものの、もうちょっとさかのぼれば、といった微妙なところもあり、中国共産党政府も韓国政府も、現実には、お互いに一線を越えない、といったぎりぎりのところで踏みとどまっている。

 ところが、ロシアのメド君は、そういった、隣どうしの日頃のつきあいを越えて、いともたやすく、離れ座敷に土足で踏み込んだ。
 日本政府が南に気をとられているスキを突いた、なんて、もっともらしいことが言われているけれど、そうだとしたら、まさに火事場泥棒のようなものですね。

 中国や朝鮮とは、ちょっと近親憎悪みたいなところもあって、ほんとうはもっと早くなんとかなっていたはずなのに、過去の自民党政府や愚かな政治家たちが、侵略はしていないだとか、従軍慰安婦も強制連行もでっちあげだとか、まあ、どうしようもないくだらない主張をして、無意味な波風を立ててきた。今度の尖閣問題での、中国各地でのデモも、あの田母神さんが、わざわざ中国大使館に抗議デモを組織して刺激したことに端を発している。
 だけど、ロシア政府とは、ちょっと立場やいきさつが違うだろう。

 長くなるので検証までしないけれど、日露戦争のころは、太平洋戦争のときみたいに、国民を道連れに花と散って陛下のために死のう、なんていう軍人や政治家はほとんどいなかったらしくて、冷静に、ここで戦争をやめたほうがトクだ、と、ポーツマス条約で、要領よく講和している。
 これはアメリカに仲介させている。
 このときに、「樺太」の半分まで「永久に」日本の領土とした。

 で、時代は下って、ロシアはソビエト連邦となり、アメリカとの戦争を視野に入れていた日本は1941年の4月に「日ソ中立条約」を結んだ。
 これは5年間有効だけれど、満期の1年前に通告すれば破棄できる。借家の契約解消での通知が何カ月前でしたっけ、あれと似たようなものですね。
 だから、「契約」が切れるのは1946年のはずだけれど、日本の同盟国ドイツと戦い、ドイツを共通の敵とするアメリカやイギリスと裏取引をしたスターリンは、敗色濃厚な日本の戦後処理を密約して、4月には日本へ条約破棄を通告した
 そして、8月9日、ちょうど「ナガサキ」原爆投下の日ですね。おそらくそれも知っていたのだろう。破棄を通告しても条約は翌年の4月までの期限を残していたはずだけれど、対日本戦を開始した。足もとをみて弱みにつけ込むことと強硬戦略は、スターリンの得意技だろう。
 ソ連との「国境」を守っていた、関東軍と呼ばれた満州の日本軍は、入植させていた自国民など見殺しどころか捨て駒にして、総崩れで逃げ出した。「中国残留孤児」は、このとき生まれた。
 逃げ遅れた日本の兵隊さんは捕まって「シベリア抑留」され、多くの人が死んだ。今でいう捕虜虐待だけれど、戦後の日本政府は、自分たちが中国や朝鮮でしてきたことへの後ろめたさもあり、補償を放棄した。

 スターリンは、北海道まで欲しがったらしいけれど、アメリカが突っぱねた。だけど、ポーツマス条約で「永久に」とうたわれたカラフトどころか、歯舞、色丹にいたるまで、全部払い下げしたのは、ソ連と結んだアメリカである。

 いわゆる北方四島については、日本の敗戦で、暮らしていた土地から追われた人たちがまだたくさんいて、帰りたいと願っている。
 メドベージェフ君はニッサンの四駆だかで国後島を走り回って、嬉しそうにツイッターでふれまわっていたようだ。中国人民軍の強硬派や、ニッポンの田母神さんあたりでも、あれに較べたら、品があるようにさえ見える。

 プーチンの腰巾着といわれ、ずっとサポーターとして支えてきた功績で大統領にまでしてもらったメド君は、プーチンと同郷で、地縁つながりの派閥があるらしい。
 プーチンはKGB出身。日本でたとえれば、戦時中の特高警察の幹部が総理大臣になったようなものである。メドベージェフとKGBの関係はどうなのだろう。
 政敵の企業を国家権力で奪い取り、原子力潜水艦の沈没事故では、テレビカメラの眼前で、抗議する遺族に後ろから注射を打ち、世界の誰もがあきらかに誰のせいか理解したリトヴィネンコ殺害ではシラを切る、といった姿勢を堂々と通してきたプーチンにみるロシアのスターリニズムには、迷いというものがない。

 今、日本では「弱腰外交」などと、みんな雰囲気に乗りたがっているけれど、どうせ三ヶ月も経てば忘れてしまう。
 三歩歩いてさっきのことを忘れるといわれる、ニワトリみたいなものだ。
 尖閣諸島だって、今でも、どこにあるのか知らずに言っている人も多いのではないだろうか。まして、歴史なんて知ったこっちゃない?
 「世論」とは、どうせ、そんなものである。

 中学校や高校の、社会科の副読本だった世界史地図でも見てみるとよくわかるけれど、百年、二百年経てば、国境なんか大きく変わっていた。
 もう、国境線をめぐって、そんな野蛮なことをやっている時代ではない。

 国会も、国民のウップンばらしを利用するような「論戦」は、そろそろいいかげんにしてほしいし、ウケていると錯覚している小泉ジュニアばかり、カメラの前で質問させるのも、まあ、ほどほどにして、もう少し、国民の理性や知性にも、敬意をはらってほしいものである。
   
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2010年10月21日

「秋の土用」に入った。

旧暦九月十四日 甲辰(きのえたつ)

 さすがに朝晩冷え込むようになってきて、いつまでたっても「残暑」の日々に躊躇していた衣替えを、あわてて始めなければならなくなった。
 そりゃそうですね。中秋の名月からほぼひと月が過ぎ、昨夜はもう、十三夜だった。

 旧暦八月十五日、つまり十五夜の月が「中秋の名月」であり、翌九月十三日には「十三夜」の月を愛でる。
 前にも少しふれました(http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/archives/20091113-1.html)。
 中秋の名月は、「中秋節」の中国から伝わり、韓国でも「嘉俳(カベ)」と呼んで重要な節日となっているらしいけれど、「十三夜」は、花鳥風月の日本ならではの風習で、中国にも韓国にもないようだ。

 で、中秋の名月、すなわち十五夜の月を賞したならば、十三夜の月見を欠かすことはできない、という暗黙のルールがある。これを破って、どちらかの宵の月だけしか観ないと、「片見月」といって嫌われる。ペナルティはないようですが(笑)、何らかの意味づけで、縁起がよくない、ということなのでしょうね。
 でも、今年の十五夜は、京都ではたしかお天気がよくなくて、月はほとんど出なかったし、きのうの十三夜も曇ってしまった。結局、どちらも月を観ることができなかったので、天のはからいか、片見月にはならずにすんだ。
 いやいや、風流というのは、御しがたく、奥深いものです。

 そしてまた、昨日は、十三夜であると同時に、秋の土用の入りだった。
 「土用」は、夏の土用だけ「鰻を食べる」土用の丑で知られていて、夏のものだというようなイメージがあるが、じつは四季それぞれにある。

 近年はやりの陰陽道、何年か前に安倍晴明さん人気で、京都の晴明神社が一気にメジャーになったけれど、その陰陽道のルーツ、五行説によると、この世のすべては「木火土金水」の五気によって生成されている。で、四つの季節に、この五つの「元素」をあてはめようとすると、ごくあたりまえにひとつ余ってしまう。だもので、立春や立秋などの、それぞれの季節に入る前、それぞれ十八日を「土」に分配して、つじつまをあわせた。

 五行説では、五行配当表というのがあって、五行すなわち五気に、色や方角、季節、星、味覚、感覚、内臓(五臓)から、声といったものまで振り分けてある。
 季節でいえば、木に春、火に夏、金に秋、水に冬となって、土に土用である。
 色では、木に青、火に赤(紅、朱)、金に白、水に黒(玄)、土に黄、となっていて、これがつながって春は青春、夏は朱夏、秋は白秋、冬は玄冬と異称で呼ばれる。

 それにしても、この五色など、赤・青・黄は色の三原色、印刷物でよく言うマゼンタ、ブルー、イエローであり、黒が加わって、四色刷のカラー印刷のベースそのものだ。
 つまり、色の三原色と、それらをあわせてできる黒。そしてまた、黄を緑に置き換えれば、光の三原色となって、あわせると、白となる。これが、ちゃんとそろっている。
 微妙なところはあるけれど、はるか古代に、ちゃんと頭の中で分色、分光していたのはすごいな、と思う。

 話を土用に戻せば、かつて専業主婦から民俗学者となり、ことに陰陽五行に関して多くの著作を残した、故・吉野裕子さんは、「この土用こそ、中国思想の真髄を一年の経過の中に、具体的に示しているものとして私にはとらえられる」として、次のように説明している。

(前略)冬は唐突に春になるのではなく、春もまた直ちに夏に移るのではない。各季節の間には、そのいずれにも属さない中間の季(とき)がある。それが各季節の季(すえ)におかれた、十八日間の土用である。(中略)土気の作用の特色はその両義性にある。つまり土気は一方において万物を土に還す死滅作用と、同時に他方においては、万物を育みそだてる育成作用の二種の働きをもつ。そこで一年の推移においても、各季の中間におかれた土気は、過ぎ去るべき季節を殺し、生れるべき季節を育む。それによって一年は順当に推移する。(『陰陽五行と日本の民族』人文書院)

 うむむ。中国共産党政府のみなさんにも振り返っていただきたい、五千年の文化の根源ですね。

 そういった、重要な期間なので、本来、いろいろと制約もあった。

 土用の期間中は、土公神(どくじん)なる神様が支配するといわれた。土公神は陰陽道で、土をつかさどる神とされた。古い暦注書には「土を犯し殺生を忌む」とある。(略)葬送があっても、この期間中は延期された。また、土を動かすこと、つまりは造作、かまどなどの修造、柱立、礎を置くこと、井戸掘り、壁塗りなどいっさいが凶とされた。
 (略)土用は春夏秋冬の四回あり、合計七三日にも及ぶ。この土用の期間中、いっさい土を動かすことができないとなれば、非常に不便である。特に「秋には土公が井戸にあり」と言われていたので、秋の土用は井戸掘りや井戸替えが厳禁されていた。これでは不便この上ないし、それを生業としている人々もあがったりだ。そこで土用にも間日(まび)というものを設けた。この日には、文殊菩薩のはからいで、土公神一族すべてが清涼山に集められるので、土を動かしても祟りがないということにした。(『現代こよみ読み解き事典』柏書房)

 この「間日」は、四季それぞれ順番に十二支の日があてられ、秋の土用では「未(ひつじ)・酉(とり)・亥(い)」の日となっていて、四日に一回やってくる。
 わざわざ難しくしておいて、また、ラクにする言い訳を考える、という思考システムは、古代思想を推し量る際のポイントのような気がするけれど、文殊菩薩さんをひっぱりだして、間日をつくったあたりは、なんとなく日本に伝わってから(笑)のような気がしますね。

 せっかくだから、秋の土用にも、夏の土用の丑のような、特異日ならぬ「特食い日」をつくったらいいと思うのだけれど。
 冬、春にもつくって、四季そろえば、また相乗効果がありそうな気がする。

 今頃であれば、鍋の日、あたりかと思ったけれど、鍋の日はちゃんとあって、11月7日だという。11・7で「いいなべ」と読むのだそうだ。ふむふむ。
 まあ、たいていの「○○の日」は、こんな、少々ムリのある語呂合わせをするだけだから、ほとんど盛り上がらない。
 土用の丑、は、なんとなく、陰陽五行的というか、意味ありげな特定の日を指定しているから、どこか乗りやすいのである。
 「節分の日」に「その年の恵方」を向いてまるかじり、といった巻寿司の販促もそうだけれど、「なぜこの日なのか」という設定に、ただの語呂合わせではない意味づけ、ストーリーが必要なのだ。どうせ語呂合わせ、と思われてしまっては、ただの役所のキャンペーンと大差ないイメージとなってしまう。
 だから、鍋であっても、何の、どんな鍋、といった細目が決まっていて、説得力のある裏づけがなければだめでしょうね。

 土用の丑に鰻、をブレイクさせたといわれる平賀源内から、ざっと二百五十年。
 みなさん、秋の土用も、冬の土用もありますよ。
   
ラベル:五行 土用
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2010年10月14日

孫の日と、消えたお年寄り。

旧暦九月七日 丁酉(ひのととり)

 この週末にやってくる日曜日、17日は「孫の日」なのだそうだ。
百貨店協会が制定したらしい。
 可愛いマゴのために、じいちゃん、ばあちゃんに、いっぱい買い物をしてもらいましょう、というキャンペーン。
 迷惑でしょうね(笑)。

 10月の第三日曜日を充てるらしい。
 なぜ10月の第三日曜日かというと、9月の第三月曜日が敬老の日で、その一ヶ月後になるので、このあたりがちょうどいい、ということになったようだ。
 バレンタインデーの一ヶ月後にホワイトデー、のノリというわけですね。
 もともと「敬老の日」は9月15日だったけれど、休みはなるべくまとめて連休にして、なんとか消費に結びつけていこうという「ハッピーマンデー制度」によって、いつのまにか第三月曜日ということになった。

 ハッピーマンデー制度以来、祝祭日はぐちゃぐちゃになってしまった。「敬老の日」が決まった期日でなくなったことには、高齢者の関連する団体から抗議が相次いだという。それで、9月15日を「老人の日」ということにして、続く一週間を「老人週間」にした。いや、知らなかったなあ(驚)。
 ウィキペディアで「敬老の日」を引くと、もともとこの日がつくられた経緯も説明されている。おそらく、おおむね正しいでしょう。

 「孫の日」はもちろん、国民休日ではない。百貨店協会がねらっている、この日のコンセプトは、「小皇帝の日」といったところでしょう。
 マーケティングとしては正論というか、いいところをついた発想で、心理的にもツボにはまっている。だけど、「母の日」や「父の日」、あるいは「敬老の日」などと較べて、商売人が最近つくったものだから、というだけでなく、なんとなく違和感を感じるのは、「孫」には、特別な日に報いられるべき、ふだんの苦労や日常の努力があるわけではなくて、祝ってあげる人のほうが、むしろ報いられるべき存在だから、だろう。

 つまり、どこかに、本末転倒?! という潜在的な抵抗意識がはたらくのだ。
 シックスポケット、といわれる、小皇帝、小皇后に、そこまでしてあげなくても、ふだんから、毎日が孫の日みたいなものじゃないの? といったシニカルな疑問が、ついかすめてしまう。

 そういえば、老人の日も、敬老の日も、老人週間も、盛り上がってはいなかった。孫の日、と言われて、そうか、そっちもあったはずだな、という印象である。
 人口は、圧倒的に「孫」より多いはずだから、本当はむしろ、ここでのマーケティングをうまくやって、その「先進的な」サービスや商品の開発を、後に続く世界の高齢化社会に輸出しなくてはね。


 以前、まだ社会人になって間もないころだっただろうか、バスに乗っていて、その車内は、そこそこ混んでいた。
 今でもときどき遭遇するけれど、京都市バスの運転は少々荒っぽいことが多くて、よく揺れた。
 すぐ向こうにおばあちゃんがいて、ぐい、とバスがハンドルを切ったときに、よろけた。 すると、よろけた先にいた、まだ高校生くらいだっただろうか、若い女の子は、おばあちゃんを支えると思いきや、すっと、よけた。
 そのまた手前にいたこっちは、あわてて倒れてきたおばあちゃんを受けとめて、おばあちゃんは、かろうじて妙な転け方をしないですんだ。
 そしておまけに、おばあちゃんをよけた女の子は、席が空いたとたん、おばあちゃんを尻目にさっさとそこに座った。

 うーん、温厚な青年としても(笑)、怒り心頭。
 幸いなことに、その時、鼻がむずむずとしてきた。
 ちょうど、立っている位置は、年寄りを目の前において座っているその女の子の席の真横。いつもと違って、口をふさいだり、うつむいてよけたりしないで、頭上から思いきりくしゃみをした。
 嫌な顔をして見上げたので、思いきりにらみつけてやった。
 悪いお兄さんですねえ(笑)。

 でも、今となってはいくらか反省もしている。
 その子ももちろんよくないけれど、常識のない子を育てた親が悪いのだと思う。年寄りをいたわったり、敬意をはらうという習慣が、身のまわりにないのだ。
 ならば、誰といわず、みんなが、ちゃんと教えてあげなければいけない。

 停留所で待っていてバスが到着したときなど、年寄りが乗ろうとしているのに、先に乗り込もうとする若者はよくいる。だけど、ちょっとひきとめて、年寄りのほうに視線をおくると、たいてい、すぐに理解して、すみません、といった照れた表情をみせるものだ。
 ふだんの暮らしで、社会における気配りの習慣が身についていないだけなのである。

 核家族の時代。きっと、その女の子も、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に暮らした経験がなかったのでしょう。孫の日など、縁遠かったのだ。
 いやー、あたまから大雨でごめんね。God bless you!(笑)

 ついしばらく前、「消えたお年寄り」が話題になった。
 百歳以上の高齢者で、戸籍上生存していることになっているのに行方不明の人が、なんと23万人を超えた、という。
 これは、とんでもない数字でしょう。
 百五十歳を超える老人が「生きて」いたり、という、笑い話のような「書類上の事実」が次々と伝えられた。
 年金の不正受給のような犯罪がらみの問題もあったようだけれど、それ以前の、何か、今の世の中の、高齢者に対する扱いを象徴しているようで、愕然とした。

 いてもいなくてもいい、社会がそう言っているような悲しい気持になった。
 しばらくマスコミが競って取り上げたあと、話題にも上らなくなった。
 行政機関は、たいして事実関係を確かめもせずに、簡単に「除籍」かなんかしたみたいだけれど、中には犯罪被害だってあり得るだろう。
 ほかのことではなかなか自分たちの間違いを認めないくせに、このことについては、あっさりと「書類上のミス」を認めて戸籍を書き換えた、なんて、あきれてものも言えない。

 無責任なマスコミには続報もなく、行政機関に確かめに行ったわけでもないので、何を基準に「戸籍の書き換え」をいとも簡単にしたのか、結果がどうなっているのかがわからないけれど、もし「百歳」を基準に、それ以上の年齢で居住確認できない人を単純に抹消したのだとしたら、その百歳の基準は、どういう理由なのだろう。
 やがて面倒だからと、六十歳以上が整理されたり、極端にいえば、二十歳以上だって、簡単に削除されることが、なくはないことになる。あとから本人が生きているとわかれば、どうなるのか。

 孫の日の前日となるあさって16日は、旧暦の九月九日で、重陽の節供だ。
 長命を寿ぐ日でもある。
 長生きするということは、古来、人々の最大の願いだった。吉祥文様の多くは、不老長寿を象徴する。鶴亀や松竹梅は代表選手。重陽の節供に菊酒を飲むのも、邪気を祓って長命を願うためだ。( http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/127694780.html

 一方、子孫繁栄もまた、かつては切実な願いだった。子どもは産まれてすぐに死ぬことが多く、育つだけでもたいへんだったし、子だくさんは一族の繁栄につながった。だから、葡萄唐草が吉祥文様だったりする。
 小皇帝や孫の日なんて、とても言っていられなかった。


 子だくさん、が可能な時代になると、誰も子だくさんを目指さなくなった。
 孫にプレゼントをしたい、というのは、つくられた「孫の日」にのせられて、というよりも、可愛い孫に何かあげたくてしかたないジジババのために、お正月やお誕生日、新学期といった従来の特定日に加えて、さらに機会を与えてくれる、というポジティブな受け止め方をしなければいけないのでしょう(笑)。

 で、おそらく、この日の前後に市場調査が行なわれることだろう。
 そのとき、調査対象となる高齢者を広くとれば、こういう「記念日」に積極的・消極的、あるいは肯定・否定といった統計は、ひょっとしたら、めぐまれているお年寄りと、そうでないお年寄りの、分布や比率を知る手がかりになるかもしれない。
   
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2010年10月08日

寒露、甘露。

旧暦九月一日 辛卯(かのとう) 寒露(かんろ)

 旧暦では、ようやく九月に入りました。
 お朔日(ついたち)は、二十四節気の「寒露」にあたる。

 例によって『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)によると、「寒露とは、晩夏から初秋にかけて野草に宿る冷たい露のことをさし、秋の深まりを思わせる。」とある。国語辞典や漢和辞典でも、ほぼ同じ説明。
 まだ、衣替えにウロウロしているけれど、そろそろ秋深し、なのですね。

 「寒露」という言葉を、かつて、「甘露」とごちゃまぜにしてしまっていた。
 おお、寒露ぢゃ、甘露ぢゃ。なんて。
 なにごとも、ちゃんと辞書を引いたり、確かめないといけませんね(恥)。

 でも、そろそろ食欲の秋、寒露というと、ついつい、なんとなく「甘露」をイメージしてしまう。
 「甘露」とは、もともと「不老不死の妙薬」らしい。

@天から与えられる甘い不老不死の霊薬。中国古来の伝説では、天子が仁政を行なうめでたい前兆として天から降るという。(『国語大辞典』小学館)

@甘い(おいしい)つゆ。天子が善政を敷き、天下が太平になると、天が降らせるという。〔老子、三十二〕(『大漢語林』大修館書店)

 おお、さすが古代中国の発想ですね。
 まあ、でも、今の中国にも、日本にも、甘露が降ってはきそうにないけれど。

「甘露」には、ほかにも、おいしい、美味であるとか、いろいろ派生的と思われる語意があるけれど、源流としての意味がもうひとつある。

A(梵amrtaの訳語。阿蜜■〔口へんに栗〕多と音訳。不死、神酒などとも訳す)インドで天の神々が不死を得るための飲料をいう。転じて、仏の教え、仏の悟りなどにたとえる。(『国語大辞典』小学館)

A(仏)梵語amrtaの訳語。不死・天酒とも訳す。トウ利天の甘い霊液で、よく苦悩をいやし、長寿を保たせ、死者をも復活させるという。仏法にたとえる。「甘露法雨」(『大漢語林』大修館書店)

※ amrtaの r は、文字の下に .がつきます。「トウ利天」のトウは、りっしんべんに刀。
どちらもデジタルフォントでは出ません。


 おそらく、漢語のほうが先にあって、伝来した仏典の訳語を合わせ易かったのでしょうね。
 こういう寿福を語る前向きな言葉は、何かと転用がしやすい(笑)。
 だもので、日本の、食欲の秋には、いっぱい「甘露」の形容が広がった。
 甘露酒、甘露醤油、甘露水、甘露漬、甘露煮、甘露梅……。 これらは、『大漢語林』にはない言葉。
 いやいや、食べものに美学を求める日本人の習性がしみじみわかります(笑)。

 で、国語辞典に無くて、漢語辞典に有った、甘露の派生語は、「甘露門」。
 「(仏)涅槃に至る門戸。如来の教え。(智度論)」とある。本義の流れですね。
 あまり出てこないところをみると、、中国では、食い物に、安易に不老不死の形容を与えてはいないようだ。

 でも、こうしてみると、「寒露」も、もう少し応用できそうな気がする。
 世界が魅力を感じている「和」の時代です。
 原典は中国だけれど、いいのだ(笑)。
 秋深まって野草に宿る、清冽な露は、ピュアなイメージ、ひいてはエコなイメージまでネーミングとしてつなぐことができそうです。
 あと一週間ばかりすれば、旧暦の九月九日、重陽の節供だけれど、前夜から菊に「着せ綿」をして含ませる露も、この時期だから、やはり「寒露」の一種でしょう。
 そして、これも長寿をもたらすのだから「甘露」に通じる。

 「甘露醤油」というのは知らなかった。
 「塩水の代わりに濃口醤油を使って仕込んだ濃厚な味の醤油」とあるから、刺身醤油のようなイメージなのだろうか。

 醤油あるいはそれに類する調味料は、地域の文化の象徴のように思えますね。
 出雲で始めてそばを食べたときには、あきらかに醤油の違いを感じたし(飯塚そばが店を閉めたらしいのは、じつに残念!)、時間とお金があれば、各地の醤油をなめ歩きたいと思ったものだった。

 かつてサルトルやヘッセの著作集を出していた、京都の人文書院という出版社の、たしか元編集長だと思うのだけれど、松本章男さんというかたが、『京都で食べる京都に生きる』(新潮社)という本の中で、京都の食に関する原稿を書いた時に、東京の編集者が、何度「淡口(うすくち)醤油」と書いても、「薄口醤油」と直してきた、と嘆いておられた。
 京都に関する東京モン(笑)エディターの間違いだらけについては、いずれ特集を組みたい(笑)けれど、「薄口」の醤油は典型的な例である。

 まあ、でも、東京の、コロッケまでのっけてしまう、なんでもありの、「東京」醤油で真っ黒なそばも、それはそれで懐かしい。
 うーん、神田のやぶそばで天たねが食いたい!
 久しぶりに、東京の仕事、こないかな(笑)。
   
posted by Office KONDO at 00:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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