2010年09月25日

中秋節も過ぎて。

旧暦八月十八日 戊寅(つちのえとら) 社日(しゃにち)

 おとといが彼岸の中日、秋分で、十六夜で、月齢では14.7の満月だった。
 その前日、さきおとといが、暦の上では十五夜。中秋の名月だったけれど、なんだか、あまり盛り上がらなかった。残念ながら京都では雨模様、どこも、お天気の悪いところが多かったようです。
 あしたは彼岸の明けですね。

 きょうは「社日(しゃにち)」。
 なにげなく、こういう日があるな、と思っていたけれど、あまり目立たない「雑節」である。
 節分、彼岸、社日、ときて、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日と並ぶ九つの節目が、基本的な「雑節」らしい。彼岸と社日だけは、春と秋に二回やってくる。
 おそらく、いちばん知名度の低い(笑)のが、社日。

 年に二回の社日は、春分と秋分に最も近い戊(つちのえ)の日にあてるそうだ。(『現代こよみ読み解き事典』柏書房)
 『大漢語林』(大修館書店)では、「立春または立秋後の五番目の戊の日」とあった。微妙な定義。おそらく、結果は同じということになるのかもしれないけれど、前書には、「(春分、秋分に)前後同日数の場合には、前の方の戊の日を社日とする」とあるので、やっぱり微妙、ですね。
 時間のあるかたは、一度ゆっくりチェックしてみてください。(笑)

 「この日、産土神に参拝し、春には五穀の種を供えて豊作を祈り、秋は収穫のお礼参りをする」と『〜事典』にあり、「この日、土地の神を祭り豊作を祈る。春を春社、秋を秋社という」と『大漢語林』にある。国語辞典でも、だいたい似たような説明がされている。

 「社」は、同じく漢和辞典でみると「土地の神」また、それをまつる「やしろ」「ほこら」とある。お宮さん、神社ですね。
 あらためて漢和辞典をみていると、面白い。解字では、「社」の字のつくりにあたる「土」に、もともと「農民が共同で祭る農耕地の神の意味」があったと説明されている。
 さらに、「社会(會)」という言葉をみると、第一義に「昔、社日に催した同集落の住民の会合」とあり、次に「同集落の住民が生活向上のために作った組合。昔は、二十五家で一つの社を作った」とある。
 で、そこから、明治八年に東京日日新聞で福地源一郎という人が、societyの訳語としての「社会」という言葉を初めて使ったらしい。
 ふむふむ、漢和辞典も、結構、楽しめる読み物です。

 「社日」は、神さん由来、だけれど、「彼岸」のほうは、仏さん由来、である。
 仏教では「彼岸会」として法会が行なわれる。これは、日本仏教に独特のものだそうだ。
 日本の仏教に独特の行事や風習は多いけれど、最たるものは妻帯でしょう。僧侶の息子が寺を継ぐ、というのは、世界の仏教徒にとっては、たいへんな違和感があるはずで、もともと僧侶に妻帯を認めていないから、当然、子どもはいない。世襲は不可能なのだ。

 どの世界でも、戒律をちゃんと守る、といった奇特な人はまれなもので、もともと仏教の教えでは、肉食も飲酒も認めていないはずだけれど、お酒を「般若湯」などと、みごとなネーミングで読み替えて、日々、智恵と悟りを得ている坊さんは多い(笑)。
 もっとも、そのおかげで、社用族 (おっと、死語になりかけていそうですね) 激減の中でも、祇園や花見小路の夜の灯りは、かろうじて保たれてきた。

 ま、ま、それはともかく、社日も彼岸会も、漢字の母国、中国にはない行事とは、言われてみれば、という感じだけれど、「中秋の名月」は、日中ともにある。
 もともと、唐様の文化が日本の王朝に伝わり、風雅な月見の宴を楽しむようになったけれど、今では、下々の間では、家に縁側もなく、ススキも見かけず、都会では高層マンションで月も見えず、で、せいぜい月見団子を買ってくるのが関の山となった。
 それも、ちかごろでは、スーパーのチラシにも、中秋や月見の文字はなく、饅頭屋さん、餅屋さんが、共同でこの日にチラシを入れるくらいである。節分の巻き寿司は派手になってきたが、中秋の名月は気にもしていないのだろうか。うまく販促すれば、いろんなものを売れるのにね。

 「中秋の名月」は、中国では「中秋節」。かなり重要な節日らしい。
 この夜のまるく満ちた月を「端正月」と呼び、一家が団円、全員が欠けることなく集まることを願って月餅を食べるのだそうだ。

 なので、このあいだの尖閣諸島の事件で逮捕された中国漁船の船長を、どうせ釈放するなら、中秋節の前に帰してあげればよかったのだと、誰かがテレビで言っていた。
 一方、逮捕直後に亡くなった、彼の祖母だかの葬儀だか法要だかが一両日中にあるので、それに間に合うようにした、との説も流れていた。
 いずれにしても、そういうタイミングと符合するのなら、日本政府がそこをみはからって釈放したのでなくても、それを、人道上の理由として前面に出せばよかっただろう。それがプロパガンダというものだ。

 沖縄地検の独自判断なんて、誰も信じないし、だから地検がたたかれていないのであって、ほんとうに地検が「日中関係を考慮して」釈放したのなら、違った意味で大問題になる。国際関係は地検ごときが関与できる案件でもなんでもない。

 それにしても、幼稚きわまりない対応の続く民主党内閣。
 海上で追跡して逮捕する、という時点で、政府の誰と連絡をとりながら、「逮捕、連行」を決めたのか。
 その時点で、のちのちの対応は決まっていなければならない。逮捕して、中国共産党政府が黙っているわけはないし、逮捕する際に、ひょっとしたらけが人や、死者まで出る可能性だってあったはずである。海上保安庁の映像は、ときどきテレビで流されることがあるが、船から船へ跳び移る、あの行為は命がけである。おそらく、逮捕決行を命じた政府閣僚は、東京にいて、案外、軽い気持でゴーサインを出したのだろう。

 普天間、消費税、そして尖閣、課題が明確になることは悪くないのだが、次々と寝た子を起こしては後始末のできない民主党内閣は、またまた無能よばわりされるだろう。そのことより、むしろ、そういった失点を取り戻そうとする焦りのほうが危険だ。

 領土問題というのは、国民同士、もっとも論理性を欠いて感情的になりやすい問題である。だから、国民に不満がある政府ほど、求心力として利用しやすい。
 ナショナリズムをあおりたがる連中は、いつの時代でもいる。ボスニア・ヘルツェゴビナの悲劇は記憶に新しい。
 中国でも、日本でも、マスコミが騒いで(実質的にはあおって)いるほど、感情が悪化しているわけではなさそうだ。街の声には、意外なほど冷静なものもある。反日感情が高まっている、と盛り上げたがる日本のマスコミ、ことにテレビ、そして、統制された中国のマスコミは、戦前の日本の新聞と似たようなものなのかもしれない。

 両方の国民は、ビジネスや留学で行ったり来たりしている人ほど、お互いがうまくいけばいいと思っているだろう。
 中国共産党の中では、今も権力争いが熾烈なようだ。向こうでいう「保守派」の攻撃で温家宝さんも日本には強気に出るしかない。領土問題は、権力者にとって最大の踏み絵だ。しかも、一党独裁政権。最も譲れない一線なのである。
 読み誤って、逮捕! を指示した政治家は、戦争も辞さないつもりでいたのかどうか。レアアースで日本の息の根をとめる、なんて、太平洋戦争前の石油と同じでしょう。前哨戦としての経済戦争である。相手政府の行動予測もできないで、何をかいわんや、である。

 いずれにしても、あんなに大きな国で、共産党独裁があと百年も続くわけはないし、領土問題なんて十年二十年で解決するものでもない。やがて民主化されれば、交渉もまっとうなものになる。理想をいえば、いつか国境など取り沙汰しなくてもいいような、世界の一体感が形成されれば、紛争は消える。
 満月は、どこの国も同じように照らすのだ。
   
ラベル:社日 中秋節 尖閣
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2010年09月13日

ナースウォッチと医療ツーリズム

旧暦八月六日 丙寅(ひのえとら)

 看護婦さんが腕時計をしている病院は気をつけたほうがいい。

 そんな話を、かつて聞いたことがある。

 なぜかというと、腕時計をはめていると、手首までちゃんと洗えないからだそうだ。
 医師や看護師は、数多くの患者と接触する。それぞれ違う疾病を持ち、違う病原菌を持っている。それを別の患者に感染させてはいけないから、手の消毒はこまめにする。そのとき、指の間や爪の隙間とともに、手首までちゃんと洗わなければいけない。インフルエンザのときにも言われていましたね。病院でも、家庭でも、手洗いの基本。
 腕時計をはめたままだと、当然、そちらの手首は洗えない。
 いちいちはずして洗うのは面倒だから、つい、おろそかになる。
 つまり、基本的なことができていない可能性が高い。

 と、いうわけである。
 だから、ナースウォッチと呼ばれる時計は、ベルトなんかに下げるようにつくられていて、文字盤が上下逆さに向き、ぱっ、と見やすいようになっている。
 とはいえ、気をつけて見ていないせいもあるのか、病院に行ってナース・ウオッチを見た記憶、って、まったくないけれど。(笑)
 腕時計を白衣のポケットに入れていて、脈を読むときなんかに、取り出して見ている看護婦さんは、時折、見かけますね。

 帝京大学付属病院のみなさんは、どうだったのだろう。

 「多剤耐性アシネトバクター菌」などという、舌をかみそうな名前の悪性の細菌が院内に広がりながら、気にしていなかったのか、隠していたのか。1年前から菌を検出し、去年の11月に1人亡くなっているというのに、年を越したこの9月になっての発表だから、おそらく内部告発があって、調査が入ったか、その情報がもれたか、そのあたりで、急遽、記者会見をひらいたのでしょうね。
 3日に最初の発表をしたあと、患者数も、死者も、なしくずしに増えていって、9月11日には、ついに感染者58人、因果関係が未確定ながら、死者がなんと33人。記者会見の時点で、ちゃんとした内部での事実確認も、対外的な体制もできていなかったこと、そのあわてぶりがわかる。
 感染対策をになう感染制御部という部門の名前が出ていたので、ちゃんと組織はつくられていたのにどうして、と思っていたら、感染がどんどん広がってしまった今年の5月になって、はじめて専属の担当者をおいたのだそうだ。まさに付け焼き刃。

 帝京大といえば、どうしても、あの薬害エイズ事件で逮捕された、安部英副学長の名前を思い出す。ウィキペディアでたどると、あの安部センセイは、その後一審で無罪、検察控訴ののち認知症を発症して公判停止となり、2005年に亡くなっている。

 今回の耐性菌では、帝京大も、わかっていて転院させるなど、じつに大雑把だったけれど、その後、東京都の健康長寿医療センターというところでも、感染患者を大部屋? に入れておいたのか、接触者がなんと60人近い数にのぼっていたり、別の緑膿菌という多剤耐性菌で10人が亡くなっていることなどが報じられた。
 集中治療室(CPU)で相部屋だった、なんて、そりゃ、確実に感染して死ぬでしょう。もし、わかっていてそうしたのなら、未必の故意による殺人ともいえるのではないか。

 企業に較べるとずっと少ないけれど、病院についても、これまでに、仕事で案内冊子を何度かつくってきたことがある。幸い、ちゃんとした病院だった。今までのところ(笑)。
 時代によって、少しずつ表現の方法は変わってきたが、おそらく、今であれば、

 「わたしたちの病棟に、腕時計をはめた看護師は一人もいません」

という見出しで、病院のCSRが語れるでしょうね。

 それをあたりまえに実行している病院では、おそらく、それがアピールできるひとつのポイントだとは思わないだろう。
 だけど、ほんとうのCSRとは、そういったところにあると思う。
 ごくあたりまえのセオリーが、ちゃんと染みついて百パーセント実行され、ルールがきちんと守られていたら、本来、問題は起きない。
 ふつうのモラルを維持できない人が多い、というより、そういう環境だから、わざわざ、CSRだの、ガバナンスだのといって、意識させなければならないのである。

 忙しい、とか、採算が合わない、などといって、さまざまなことが雑になる。そして、一人一人の患者の自己治癒能力を高める、なんて悠長なことを言っていられないから、抗生物質をどんどん使って手っ取り早く治そうとする。ベッド数は一定だから、売上げや利益率を上げようとすれば、回転率を上げるしかない。
 ビジネスとなった医療現場のかかえる根本的な問題といえるだろう。

 こうしてあらわれた多剤耐性菌は、ひょっとしたら、この先の新型インフルエンザより怖いかもしれない。
 そして、この、なんとかバスターみたいな名前の菌より、さらに強烈な耐性菌が、続いて登場した。こちらは、NDM1という「遺伝子」だそうで、さまざまな病原菌にも広がって、それらを「スーパー耐性菌」にする可能性がある、という。
 そんなところで、スーパー、っていわれてもねえ。
 いやはや、まさに、バイオハザードのような世界。

 なんていうことを言っていたら、今度は、キリン協和発酵さんの研究所から、遺伝子の組み替えマウスが二匹、行方不明になった。
 まあ、どこでも、危機管理や、企業の社会的責任(CSR)は、こんなものである。

 ところで、今、おそらく、心ある医療関係者が、この耐性菌の蔓延に心痛めるのと正反対の方角で、心痛めている人たちがいるはずである。

 「医療ツーリズム」という言葉を耳にすることが、最近多くなってきた。
 医療水準が日本より遅れていて、自分の国では持病をちゃんと治すことができない外国のお金持ちを、日本の医療機関で治してあげよう、というものだ。
 たとえば、大阪大学では、サウジアラビアの人たちに最先端の心臓病治療を提供しようと、向こうの病院との「連携」を始めた。今年中には患者が来日するというから、おそらく、またニュースになるだろう。

 この医療ツーリズムでの治療費をどうするかについて、「医療が金儲けの手段になってはいけないから、費用を差別するのはよくない」という意見があるそうだ。
 医は仁術、ですからね。
 でも、この場合、その考え方は間違っている。
 はっきり言って、もともとが、金儲けのためのアイデア、そのものでしょ?(笑)

 だいたい、砂漠の国々でカネが余っているなら、金持ちの先端治療に優遇をはかるより、若い医学生をその技術や知識の修得のために留学させるほうが、本来だろう。だけど、そっちの話は聞かない。
 そういう身勝手な、たまたま足もとからアブラが噴き出しただけで、我が世の春を謳歌している砂漠の成金さんたちには、可能な限りの高額料金で「医療サービス」を提供してあげればいいのです。

 医療の大切さを理解するがゆえに、千数百年かけて、先達が苦労を重ね、育ててきた文化と技術を、別に相手が外国人だからだめなどということではない、札束で優先的にいのちを買おうとする連中に、気軽に与える必要なんか、どこにもない。医療には、インフラに膨大な費用が積み重ねられてきている。少なくとも百倍くらいの医療費をとって、それを、日本だけでなく、世界の人々のいのちを救うために使えばいいのだ。生きられるはずなのに死んでいく子どもたちが、世界にどれだけいることか。

 だけど、その「医療ツーリズム」の最大の敵となりそうなのが、この、耐性菌ですね。
 金の卵、の「患者様」を、万が一にでも感染させて死なせたりしたら、これはたいへんな痛手となる。最先端医療のブランドに傷がつく。
 なにせ、治療できるクスリがない。
 関係者は戦々兢々。心痛んでいることでしょう。

 だから、そのための必死の努力をしてくれると、逆に、新たな対策が生み出され、希望がみえる、ということも考えられる。
 欲得は、世界を救う。
 医療ツーリズムで提供されるのは、ほとんどが最先端の治療技術になるだろうから、かなりリスクの高い患者ばかりだ。そのため、院内感染のようなリスクにたいするマネジメントも、相当にレベルが高くなければならない。国内の貧乏人を患者として診るより、外国からのVIPのような金持ちを相手にしているほうが、はるかに緊張感はあるだろう。そうすると、そのあたりで、感染対策が進むきっかけになるかもしれない。
 皮肉なパラドックスではあるけれど、そうなれば一石二鳥で、医療ツーリズムの利点は、むしろ、そのあたりにあるかもしれない。
   
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2010年09月08日

白露に、八朔の苦餅。

旧暦八月朔日 辛酉(かのととり) 白露

 今日は旧暦八月一日。八月のお朔日(ついたち)なので、八朔(はっさく)。朔日だから、新月です。
 祇園花街では新暦8月1日に「八朔」行事があるけれど、八朔、と呼ぶには、本来なら旧暦なのかな、と、つい思う。

 八月一日。八朔やいうて、ご機嫌伺いに、お茶屋さんを廻る。「お変りおへんか」「おおきに、ご丁寧に」と挨拶をかわすのやけど、ゆうべ、そこのお座敷へ呼んでもろといて、お変わりおへんかもないもんである。いったい、なんのために廻るのか、大方は知らへん。しかし、わたしは、これは知っている。四国の里でもするからである。ただし、九月に入ってから、つまり、これは、陰暦の八月の朔日のことで、うちらの田舎では二百十日、二百二十日とならんでの厄日としている。風や出水のある頃なので、変りないかと見舞うのである。都会の、しかも祇園町で、おまけにまだ暑い盛りの八月一日に、なんで風や雨のお見舞いせんならんのかといわずにいられへん。ただのしきたりをやるだけやろか。ねえさんにきいたら、まえは、町方の旦那方が帷子の着物に着かえて、お礼に廻る。お武家やお公家さんで、昔やってはったように、主家への忠義を誓うて、日頃の御恩義を感謝しやはるのやと教えてもろうたが、さあ、この頃、そんな忠義な心になるひとあらへんのとちがうか。(略)お茶屋さんでも、おかみさんや仲居さんが、おなじみの芸妓、舞妓の名入りの団扇を持って、町のごひいき筋へ、日頃の感謝の心持を申し上げにゆき、あわせて暑中のお見舞いに行かはったもんやそうである。それに、もうすぐ、お盆でもあるし、そうした、御挨拶もそうして兼ねておくということでもあるのやろうか。

 思いきり引用が長くなったけれど、もう、ずっと前に倒産して無くなった駸々堂さんの、ユニコンカラー双書という、結構面白かった新書シリーズの007、おっ、ダブルオーセブン、『舞妓の四季』の一節。絶版書なので、ちょっとひっぱってしまいました。
 著者は、依田義賢さんという、すでに亡くなった脚本家で、溝口健二監督の映画シナリオを多く手がけたかた。
 舞妓はんが語る、という体裁をとりつつ、どうしても男言葉の作家の口調になっているけれど、かつて京都での映画製作全盛期を支えたシナリオライターさんが、時代考証はもとより、どんな事象にもきちんとウラをとり、知識を深めて、すみずみまで気配りと想像力をはたらかせていたことが、よくわかる。
 新暦での8月1日の行事となっているものの、新年・春・夏・秋・冬、と分けられている目次では、ちゃんと、「秋」の項目の冒頭にある。

 きちんとした、おそらく厳しい仕事をしてきた人の書物には、近頃よくみる、まだ若い舞妓さんや芸妓さん(をちょっとだけ経験したかたがた)がひけらかすように書く(ライターさんが入っているのも多いだろうけれど)、軽々しくてえらそうな本や、あふれかえるネット上の「京都情報」とちがって、基本的に間違いはそんなにないだろうという、少しばかりの安心感がある。
  http://kyotohansokutsushin.seesaa.net/article/123441473.html

 引用した一文にもあるように、もともと旧暦でいう八朔は、厄日だったらしい。
 今年、9月1日が二百十日だった。
 11日は二百二十日となる。
 で、八朔とあわせて、三大厄日! なのだそうだ。
 うーん、今年も実際に台風がやってきましたね。

 古く農家では、その年に取り入れた新しい稲などを、主家や知人などに贈って祝い、同時に豊作祈願・予祝などの行事を行った。のち、この風習が町家でも流行し、この日に上下貴賤それぞれ贈り物をする習慣を生み、祝賀と親和を表すようになった。また、この日の行事をいう。田実(たのむ)の祝い(節供)のこと。田の実・たのも節句ともいう。「たのみ」とは田の実、すなわち稲の実りのことを意味し、これを祝うことから起こったといわれる。転じて、君臣相頼む(たのむ)の意にかけて、主従の間の贈答を意味するようになった。

 こちらは『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)から。
 「たのみ」というのが、いささか唐突でわかりにくいが、ここでは、さらに、徳川家康の江戸入城が八月朔日だったので、以後、重要な式日となったことや、農家では「八朔の苦餅(八朔の泣きまんじゅう)」といって、ぼたもちを食べて祝った、といったことも紹介されている。
 泣きまんじゅう、というのは、下男下女たちが、この日を境に忙しくなり、つらい夜なべの日々が始まるから、と説明されている。
 うーむ。
 なんとなくわかったような気にさせるのだけれど、稲刈りの時期に入るということなのだろうか。

 ま、なんにしても、和菓子屋さん、餅屋さんは、「八朔の苦餅(にがもち)」を売り出せば、今どき、いい季節ネタになるのじゃないのかなあ。

 こういった由来がどこまで正確なのかはわからないけれど、武家らしい語呂あわせ的こじつけの式日や、農村の厄日だったものが、なんで祇園でも行事の日となったのか、それに、いつ旧暦から新暦に移し替えられたのか、ひょっとしたら、新暦採用以降に生まれた行事なのか。
 考えてみると、つい百年、二百年前のことが、結構不確かで、ちゃんとした記録の大切さが、あらためて思いやられる。

 旧暦八朔の今日は、二十四節気では「白露(はくろ)」。
 「せきれいが鳴き始め、つばめが去っていく」(前出事典)頃だそうだ。
そういえば、鴨川のハクセキレイは、夏の間は見なかったかな。
 ツバメはといえば、めっきり来なくなった。
 去年も、今年も、何羽見たか、数えられるくらいだ。

 ツバメ同様に見なくなったのがゴイサギ(五位鷺)。
 まるまると太った鯖に足とくちばしをつけたみたいな鳥ゴイサギは、見る限り漁がとても上手とはいえず、鴨川のあちこちの落ち込み、流れ込みの上で、延々と下流を眺め続けているのを、こちらもつき合って(笑)見ていたことがよくあるけれど、魚を捕るのを見たのは、何年もの間に、せいぜい二、三度しかなかった。
 コサギやチュウサギといった白いサギたちは、じつに素早く小魚を捕るのに、正五位という殿上人の位を持つゴイサギの君は、慌てず騒がず、日がな一日ずっと水面を見ているようだった。彼らはもう、戻ってこないのだろうか。

 生物学に疎い者には、身近な環境変化の背景が論理的に解明できないが、なんとなく、まわりの生き物が減っていっている、という気はする。
 夏のはじめ、五月雨の時期には、松原橋あたりの水辺を歩いていて、鯉かと思ったらヌートリアが泳いでいた。人をまったく警戒せずに土手の斜面に上がり、すぐ二、三歩の距離で、こちらにお尻を向けておしっこをした。
 友人のブログをみていたら、彼も見つけたようで、だけど、その後、死骸を見たと報告していた。いろいろな意味で、身勝手な人間による犠牲である。

 いるべきものがいなくなり、いないはずのものがいたりして、やがて、ある日、気づいたら、人間だけしかいなくなる日がやってくるのだろうか。
 八朔に、雨風を見舞い、苦餅を食べながら「田の実」に感謝する、それは自然の摂理に対する畏敬の、ささやかなひとつのあらわれだったのかもしれない。
   
ラベル:八朔 白露 苦餅
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2010年08月30日

上田秋成さんの「戒名」?

旧暦七月二十一日 壬子(みずのえね)

 博物館に行くのは、金曜日の夕方にかぎる。

 京都国立博物館では、特別展の開催中、金曜日だけ夜8時まで開館時間を延長している。この夜間の展観を始めてから、もう何年も経つはずだけれど、意外と知られていないのか、かなり混雑する展覧会でも、この時間になると、少し人が減る。

 時間帯そのものの効果かもしれない。観光のお客さんであれば、夜には食事や繁華街を楽しもうとするだろうし、地元京都の人でも、なかなか夜に出かけて行って観覧しようとは思わないのかもしれない。そのあたりは、近所民ならではの利点ですね。

 没後200年記念の『上田秋成』展。上田秋成さんには、それほど興味がなかったけれど、一年間有効の「京都国立博物館友の会」の会員証が8月末で切れるのに、この間、『シルクロードの文字を辿って』だけしか見られなかったので、先週の金曜日、しゃくだから見に行った。(笑)

 特別展の場合、本館(旧館?)の全室を使って展示されることが多いけれど、展示可能な秋成さんの遺品が少なかったのか、半分で終わり、中央の部屋には「研究成果」として青銅鏡に関する展示があり、残り半分の部屋では「新収品展」をやっていた。こちらも、それなりに面白かった。

 上田秋成といえば『雨月物語』。小学生くらいの頃だったか、子ども向けにやさしく書かれた本で読んだ記憶がある。いくつかのストーリーは、まったく覚えていなくて、その中のどれかに、たいへんな体験をした人物が、その夜「緑青色の小便をした」という描写があった、それだけがなぜか印象に残っている。たしか「緑青色」というのがまだわからなくて、オフクロかオヤジに訊いたのではなかったかなあ。
 怪談、なんていわれることがあるようだが、怪談というより、やはり「奇譚」というほうが、しっくりくる感じではないだろうか。

 秋成さんは、大阪(大坂)で生まれ育って、年をとってから京都に住んだらしい。
 俳人でもあって、俳号のひとつに「無腸」という号があった。
 無腸というのは、「蟹」という意味なのだそうだ。
 お墓が、京都の南禅寺近く、西福寺というところにあるらしいが、その 墓石の台座にあたる部分が、なんとカニのかたちをしている。本人の遺志か、仲間の配慮なのか、いや、みんなユニークだったのですね。

 秋成さんは、いくつもの雅号を持っていたが、墓石になるくらいだから、これが代表的というか、お気に入りだったのでしょう。諡(おくりな)も「三余無腸居士」で、やっぱりカニさんなのである。

 「三余」というのは、三つの「余った」あるいは「余らせることができるはずの」時間のことらしい。

「読書に最も適した三つの時期または時。冬(年の余)・夜(日の余)・陰雨(時の余)。」(『国語大辞典』小学館)

「学問をするひまがないという者に対して三国時代、魏(ギ)の董遇(トウグウ)が教えた、三つの余った時間。冬は年の余り、夜は日の余り、陰雨は時の余り。」(『大漢語林』大修館書店)

 で、カニさんのことを「無腸」とか「無腸公子」というらしいが、「無腸」という言葉には、節操がない、とか、腹がすわってない、といった意味がある。
 カニさん由来で、そういう意味がついたのでしょうか。そういえば、カニさんに腸のようなかたちのものはみあたらないので、無腸、というのは、なるほどわからなくはない。でもなんで、そんなに「節操がない」なんてののしられるのでしょう。横に歩くから? おそらく、どこか、中国の説話あたりに由来となる話がちゃんとあるのでしょうね。

 秋成さんの諡は、学問をすることのできる三つの時間に、無節操と思われるくらい、いろいろなことをしてきた、といったような意味なのでしょうか。つまり好奇心旺盛で多芸多才、マルチタレントだったね、みたいな……。

 本人が、無腸という号を好んだとすれば、みずから「わたしは節操がない人間ですよ」と、わざわざ卑下して言うぶん、じつは節操ということをたいへん重んじていたことの裏返しではないかという気がする。義理堅い人だったのではないだろうか。

 戒名(かいみょう)は本来、生前につけたものらしい。受戒して仏教徒となった時にもらう名前で、宗派によっては法名とか法号などと呼ぶ。諡号(しごう)は、亡くなってから生前の功績を称えて贈られるものだけれど、秋成センセイの諡には、居士とついているので、俗人にとっては戒名と同じようにみえる。
 いずれにしても、今は、亡くなったときに居士だとか信士だとか院だとか、支払う値段によって、信仰も学も何もない坊さんからつけられる、適当な戒名なんかより、こういった、含蓄とユーモアのある諡(贈り名)のほうが、はるかに本人の遺徳も偲ぶことができるし、送った人々の記憶にも残る。

 秋成さんは、片目ずつ見えなくなって、一度完全に失明している。
 ところが、針灸治療か何かで、一方の眼はふたたび見えるようになったらしい。その医者を「神医」と呼んで、以後、たいへん尊重しているのがわかる。
 どんな病気で、どうやって回復したのだろう。見えなくなった眼が、しかも、あの時代に、ふたたび見えるようになったというのは、すごいことではないのだろうか。そりゃもう、神の医者と呼びたくなりますよね。

 時代は二百年前。わずか二百年前、なのかもしれない。
 だけど、二百年のタイムスリップはやっぱり隔世の感がある。
 『雨月物語』を普及させた和本は、すでに文化財であり、今ではオフセット印刷された洋装本で読む。
 二百年先、どころか、二十年先には、もう、ほとんどの人が電子書籍で読んでいるだろう。二百年先には、今、手にしている「本」そのものが、展覧会に並んでいた和本のように、よほど特殊な用途以外、過去の文化財となっていることは間違いない。

 それにしても、やっぱり、時間さえあれば、いろいろな世界は見るべきだと再認識。
 上田秋成さんという、あまり関心を持っていなかった先達の生涯も、少し身近に感じていろいろな関心とあらたな疑問で、少しばかりくすぐられたのでした。
   
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2010年08月26日

脳死になりそうな暑さの中で。

旧暦七月十七日 戊申(つちのえさる)

 週明けの月曜日、23日が「処暑(しょしょ)」だった。
 テレビのニュース番組も、今年は、この格別の「残暑」を表現するのに、どこの天気予報でも「処暑だというのに…」と言っていた。
 二十四節気をピックアップするのは、いいことです。(笑)

 処暑の前は「立秋」だったし、次にくるのは「白露(はくろ)」である。
 当然、処暑は、季語としては秋。
 季節はもう、深まりゆく秋、なのだ。
 おなじみ『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)では、「処暑」をこんなふうに説明している。

 旧暦七月、申の月の中気で、新暦八月二十三日頃である。(略)
 暑さが止むの意味から処暑という。涼風が吹きわたる初秋の頃で、暑さもようやくおさまり、綿の花が開き、穀物が実り始め、収穫の候も目前となる。昔から、この頃は二百十日と並び台風襲来の特異日とされており、暴風雨に見舞われることが少なくない。

 台風も、きわだって少ない。いやはや、パーフェクトにはずれてしまった今年です。
 白露の次が「秋分」で、「暑さ寒さも彼岸まで」とはいえ、そろそろ暑さがやわらいでくれないと、夏バテからも立ち直れない感じですよねえ。(汗)

 この夏の暑さで、みんなが、ぼーっとしている間、「セイジ」は停滞の極みといった感じだったけれど、「生体臓器移植」という「医事」は、一気に進んだ。

 立秋が過ぎたばかりの9日には、65年目を迎えた「ナガサキ」とともに、新しい移植法による初の臓器提供がニュース番組を賑わしていた。
 本人の明確な意思表明はなく、家族による同意での臓器提供。
 さらに19日には近畿で初の新法による臓器提供として、本人承諾なし、という前例がつくられた。
 その後も提供が続いた。今でこそ「情報公開が不充分だ」などと追求されているが、もう、まもなくニュースにもならなくなるだろう。

 臓器移植という医療そのものに反対ではない。
 献血だって、アイバンクだって、臓器移植と同じことである。
 どうせ焼いて灰になるものが、誰かのいのちを救うのであれば、それはそのほうがいい。
 だけど、なんだかわりきれないものが、「ゾーキイショク」という救命方法にはつきまとっている。

 有名な話ではあるけれど、40年余り前、札幌医大の和田寿郎という医師によって行なわれた日本で初の心臓移植は、疑惑だらけのもので、臓器提供者にちゃんとした医療を施さずに摘出したのではないかとされ、殺人や死体損壊の疑いで告発された。
 嫌疑不充分で不起訴とはなったけれど、臓器提供者に筋弛緩剤を打つ、などというのは、とても医師の仕業とは思えない。

 この事件を、日本の臓器移植の「不幸な出発点」と言ったりするけれど、案外、最初に本質があらわれたのではないかという気がする。
 外科医というのはたいへんな仕事で、すごいお医者さんもたくさんいるけれど、少し前にあった事件のように、患者を実験台のように扱って、やったこともない手術で死なせてしまう、まさに人の皮をかぶった悪魔のようなクズも、たまに紛れ込む。
 だから、うっかり「わたしの臓器は人々のために」などと口走ってしまうと、実績をあげたくてしかたない冤罪づくりの刑事のように、うずうずしている医者によって、さっさと「脳死」にされてしまう危険がなくはないのだ。

 再生医療の実現までには、まだ、少し時間がかかりそうだ。
 だとすれば、ほかに生き延びるてだてのない患者にとって、耳元で「移植すれば助かりますよ」と、ささやかれるのは、まさにひとすじの光である。なかば、あきらめかけているところに、かすかな確率の希望をもたせるということの功罪については意見がわかれるだろうけれど、医師のエゴイズムで妙な期待を持たせるとしたら、これほど罪つくりなことはない。

 臓器移植をやりたくてしかたない医師にとっては、おお、最高の臓器が提供されそうだ、なんて思ったとき、まわりのことは見えなくなる。
 新法で初の臓器提供という記者会見で、日本臓器移植ネットワークの本部長という女性が、たしか脳死判定されてみずからの臓物を提供する人のことを、「○○センターで管理している…」と説明していた。
 「……で治療している」あるいは「治療を続けてきた」○○さん、ではなく、彼女にとっては「管理している」貴重な臓器なのだ。そこには患者の生命や人格は、すでにない。本音がつい、口をついて出る。

 この、日本臓器移植ネットワークという組織も、ネットワーク、なんていう名前がついているから、なんとなく民間のボランティア団体のようなイメージを持つけれど、どうも、国の外郭団体のようなところらしい。

 提供の根拠となったのが、どういう「家族」の了解か、という質問には「答えられない」と言っていた。
 新法で二例目となる、次の近畿の例では、提供するという本人の意思表明は過去になく、「家族」の同意だけで提供された。

 ま、極端にいえば、どこかでばったり倒れて亡くなったときでも、家族の了解がありました、とさっさと「腑分け」されかねない、ということを感じる。
 それに、おそらく、これから、蘇生の可能性が少ない患者や、亡くなろうとしている患者の家族に対する、臓器提供への有形無形の圧力は強まるだろう。
 すでに、何年か前から、脳死状態や寝たきりでの長期入院ができないようになっている。

 これから、誰かが脳死となれば、家族にとっては、世のため人のために、臓器を提供するのが正しい人の道だ、といったような風潮をつくっていこうとするでしょうね。
 脳死で、臓器が健康なのに、それを差し出さないのは非国民だ、みたいな雰囲気がつくられる可能性もなくはない。

 あなたがここで同意しないがために、生きられる人がもうすぐ死んでしまうかもしれないのですよ。と、まわりの医療関係者が目で語り、無言の圧力となるとしたら、これは怖いことである。
 そして、あとで、ほんとうに、提供した人のいのちは救えなかったのだろうか、と疑問がわくことになれば、これほど不幸なことはない。

 だからこそ、やるなら、きちんと情報公開が必要である。
 受ける側はともかく、提供者は堂々と名乗ればいいのである。ならぱ医療機関も摘出に至る経緯を不明瞭にできない。

 ビジネスにおけるCSRと似ている。
 「あやしい」と思われたら、もう、いけないのだ。
 外科医は切りたくてしようがない人種だ、と世間一般には思われている。
 企業は、なんだかんだといって、結局、儲けたくてしかたないというのが本音だろう、と思われるのと一緒である。
 正論のためにはきちんとがまんもする、それが公的責任である、と「わかって行動している」ということを、ちゃんと証明しなければならない。
 医療機関の「社会的責任」とは何か、どのように果たすべきなのか、疑惑だらけの心臓移植に立ち返ってみると、直接の患者に対してだけではない「説明責任」を果たすことの必要性をあらためて考えざるを得ないだろう。

 それにしても、今のようなシステムで、日本臓器移植ネットワークなんていうあやしげな名前をつけた団体に、腑分けされたくはないな、と思ってしまうのはしかたなさそうだ。
 気軽にドナーカードなんかを持つのは、お年寄りが、初対面の介護士さんに年金手帳も預金通帳も何もかも全部あずけるようなものだろうという気がする。

 少なくとも、親しくもない、素性のわからない医者に、内臓なんか絶対にやらないぞ!(笑) と思ってしまうのは、博愛精神に欠けるでしょうか。
   
ラベル:臓器移植 CSR
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2010年08月06日

青木雅彦さん、という実在から。

旧暦六月二十六日 戊子(つちのえね)

 ひと月あまり前、新しい本が出来上がってきた。
 東京での印刷、製本だったので、遠路トラックで届いた。
 とりあえず、編集委員会メンバーの、大学の先生の研究室に搬入。
 ソフトカバーではあるけれど、A5判336頁というボリウムなので、ちょっとした嵩がある。

 教訓。本は2p以内の厚さでつくりましょう。クロネコメール便で送れます。送料が倍以上違う。しまった(笑)。これだけでも書籍電子化が推進されてしまってみずからの首をしめることを、郵便局は知るべきでしょうね。

 『ハーフ オプション 軍事費を半分に! −市民からの提言−』
 正式なタイトルはこうです。こうしてみると結構長いな。
 著者は青木雅彦さんという市民運動家。
 青木さんは、丹波篠山の出身で、県立の篠山鳳鳴高校を卒業したあと、関西学院大学に学び、物足りなかったのか、さらに、京都大学に入学している。
 2008年の春、亡くなった。

 その業績をまとめて残そうと、彼を知る人たちが集まって「青木雅彦著作出版委員会」をつくった。その中に、先輩エディターが何人かいて、手伝わないかと声をかけてくれた。青木さんという人をよく知りもせずに失礼だったかもしれないけれど、本づくりに加わった。

 委員会の中の、実務を進めるメンバーと、およそ一年間、毎月のように会議を開いて、一冊の書物をかたちにしていった。たいへんだったけれど、これは、じつに楽しい時間だった。
 東京に、やはり古くから青木さんを知る仲間が一人いて、編集から組み版、印刷、製本へのプロセスをフォローしてくれた。
 先輩たちは直接の作業にはあたっていないので、京都で実務にあたるほかのみなさんは、本づくりには、まさに完璧な素人である。だからこそ、かもしれない。そのエネルギーは、ちょっとしたものだった。

 市民運動、と、言葉に定義してしまうのは、なんとなく抵抗があるけれど、既成の政党のような規律に縛られた組織とは少し異なる、ゆるやかなつながりの中で社会の改善をめざす、とでもいえばいいだろうか、そういった地道な作業を続けてきた人たちである。
 世の中、なんかおかしいんじゃないか。少しは考えようよ、できればよくしたい。といった、自然な発想を実践するのは、実際には、たいへん困難をともなうのが、現実の社会である。

 一般人? からみると、そういった、まあ、「なんのトクにもならない」ことを、多くの時間をさいて、しかも自腹を切って、ときにまわりの人も巻き込みながら(笑)、だけど別に自己犠牲でもなんでもなく、まさにサスティナブルにやってきた人たちである。
 だから、作業も、おおいに意見は分かれつつ、じつに自然にまとまる。
 みんな、お互いが「別の個体」であることを熟知し、尊重しているのだ。
 国会のみなさんに、みせてやりたかったね(笑)。

 この本の、青木さんの年譜に、誕生日は入っていない。なんと誰も正確に知らないのだ。
 だけど、その年々の記録については驚くほど詳しい。何がそれぞれの人たちを互いにつないできたのかがわかる。

 いわゆる「遺稿集」にはしない。
 これが唯一の編集方針だった。

 今日は、世界が知るメモリアルデー「ヒロシマ」。
 三日後には「ナガサキ」である。
 青木さんは、「NPTと非核法を考える−ヒロシマ・ナガサキから五〇年目に」で、冒頭、こう書き出している。

 確かにあの五大国というのは、学校の教師に似ている。職員室でタバコをプカプカふかしながら「お前なぁ、タバコを吸うんがどんな悪いことかわかっとんのかぁ! えーっ!」とお説教する教師に。
 生徒がこっそり吸えば犯罪だが、教師にとっては魂のやすらぎをもたらす清涼剤である。同じタバコでもタバコが違うのである。(略)
 核兵器だってそうだ。アメリカやロシアの持っている核兵器は「抑止力によって世界に平和をもたらす天使の贈り物」だが、「核クラブ」以外の国がこれを持とうとすると、「人類に対する犯罪」だの「世界を悪魔の手に委ねる」だのありとあらゆる罵声が浴びせられるばかりか、ときには「鉄拳制裁」をくらう。

 タバコ環境は、若干、今と微妙なニュアンスが異なるかもしれないけれど、このわかりやすい文章は、1994年の終わり頃に執筆されている。

 「ハーフ オプション」という表題は、あとに続くとおり、「軍事費を半分に」減らして、それを、たとえば災害救助や難民対策、貧困や飢餓、あるいは環境保全への基金としよう、といった、青木さんの基本提言による。
 誰だって賛成できるよね、と思うけれど、なかなかそうはいかない。

 世界の軍事費は膨大である。
 核爆弾の開発なんかにカネをかけるより、飢えた子どもたちの食糧を確保するほうが大切なことは、誰もがわかっているはずなのに、未だに、人食い族のような原始的な勢力争いを続けている。

 今年の「ヒロシマ」の式典には、初めて国連の事務総長やアメリカ大使が出席した。
 だけど、「核廃絶」への道は、まだまだ、はるかな道のりにみえる。

 本の中で、青木さんが、マーク・トゥエインの小説を引用している。ちょっと長いけれど転載。

 戦争を煽るやつなんてのに、正しい人間、立派な人間なんてのは、いまだかつて一人としていなかった。……いつも決まって声の大きな一握りの連中が、戦争、戦争と大声で叫ぶ。するとさすがに教会なども、はじめのうちこそ用心深く反対をいう。それから国民の大多数もだ、鈍い目をこすりながら、なぜ戦争などしなければならないのか、懸命になって考えてみる。そして、心から腹を立てて叫ぶさ、『不正の戦争、汚い戦争だ。そんな戦争の必要はない』ってね。……だが、それもとうてい長くは続かないね。何しろ煽動屋のほうがはるかに声が大きいんだから。……まず戦争反対の弁士達は石をもって演壇を追われる。そして、凶暴になった群衆の手で言論の自由は完全にくびり殺されてしまう。……あとは政治家どもが安価な嘘をでっち上げるだけさ。まず被侵略国の悪宣伝をやる。国民は国民でうしろめたさがあるせいか、その気休めに、それらの嘘をよろこんで迎えるのだ……こうして、そのうちには、まるで正義の戦争ででもあるかのように信じこんでしまい、まことに奇怪な自己欺瞞だが、そのあとではじめて、ぐっすり安眠を神に感謝するわけだな。
――『不思議な少年』

 この暑さだけれど、明日はもう立秋。
 せめて8月くらい、あの、日本人だけで、戦闘員、非戦闘員あわせて200万人以上の犠牲者を出したといわれる戦争がどんなものだったか、ほんの少し、思いをめぐらせてみてもいいのではないだろうか。

    青木雅彦
     『ハーフ オプション 軍事費を半分に! −市民からの提言−』(草莽社)

    ↓ ここで、この本が紹介されています。
      写真がちょっとイマイチですが(笑・謝)。

     http://mamoru.fool.jp/blog/2010/07/post_99.html
   
ラベル:ヒロシマ 軍事費
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2010年07月31日

雷は、めでたいか。

旧暦六月二十日 壬午(みずのえうま)

 祇園祭は今日で終わりです。
 祇園祭の掉尾を飾るのは「疫神社夏越祭」。この茅の輪くぐりにも行ってみたいけれど、まだ未体験。

 17日の山鉾巡行が、なんといっても目立つので、巡行が終わり、山や鉾が解体されると祭が終わったように誤解されがちですが、じつは7月1日から31日まで、一ヶ月間、祇園祭は延々と続いてきたのです。

 京都での季節感としては、いまどきの天候不順になるまで、7月の中ごろに梅雨が明け、ちょうど宵山の頃、夕方のいちばん人出が多くなった頃、ゴロゴロと鳴り始めて、一天、にわかにかき曇り、どーっ、と夕立が来て、歩行者天国の人々は蜘蛛の子を散らすように逃げまどう、というのが定番でした。

 ここ数年、山鉾巡行の日に雨ということが続いたのですが、今年はちょうど梅雨明けと重なり、いいお天気で人出も多かったですね。
 もっとも、梅雨が明けたものの、それから一週間、夕立がなかった。
 ゴロゴロと鳴ったのはようやく24日の還幸祭の頃だったか、7月になって初めて、というくらいの本格的な夕立だったのではないでしょうか。

 だけど、29日のニュースで、日本全体では、7月の落雷はすでに114万回で、史上最多だと言っていた。
 京都では、いまのところ、運よく少ないのかな。

 ウィキペディアの「雷」をみてみると、「雷と神話」と項目がたてられていて、「古来より、雷は神と結びつけて考えられることが多かった。」とある。
 そりゃそうでしょう。科学的な解明も何もない時代、いきなり天空から強烈な閃光が落ちてくる! 今だって恐ろしい話です。この世のものとは思えない事象への戦慄。

 雷(かみなり)は「神鳴り」である。
 「いかづち」と呼ぶのは古い言葉だけれど、古語辞典では「厳(いか)つ霊(ち)」とある。「霊(ち)」とは、「おろち」や「いのち」の「ち」で、「自然物の持つはげしい力・威力をあらわす語」(『岩波古語辞典』補訂版)だそうだ。

 あの強烈な閃光は、稲妻(いなずま、いなづま)、や、稲光(いなびかり)と呼ぶ。稲つるび(いなつるび)ともいうそうだ。
 ここで気がつくのは、みんな、「稲」とくっついていること。
 妻(つま)は夫(つま)でもあって、「ツマ」はもともと、男女どちらということなく、結婚相手、つれあいのことを言ったらしい。
 稲のつれあいに、稲の光。そして、「稲つるび」というのも、稲と雷がつるむ、つまり交わって稲が穂をはらむ、という古代の自然観による言葉といわれている。
 稲とカミナリさんとが愛し合って、お米が生まれるのです。おお!

 この、イネとカミナリの切っても切れない仲について教えてくれたのは、何で入手したのだったか、たまたま見つけた機関誌のような冊子に載っていた短い記事。
 「いなづま≠ヘ何故稲(いね)の妻(つま)?」六角聰子さんというかたが書いている。肩書きは、国連大学ファンド企画担当官となっていて、残していたこの記事の部分だけのコピーは『食糧振興』61の22〜25ページとなっている。
 不覚にも刊行日を記録していないのだけれど、かなり古い記事。

 ネットで調べても誌名として出てこない。おそらく農林水産省の、かつての外郭団体か何かで「全国食糧振興会」というのがあり、そこが出していた定期刊行の広報誌のようなものだったのでしょう。

 記事は「日本の稲妻とアジアの稲の女神たち」「古代における雷・稲妻と稲の関係」「雷と稲妻の文様の由来」と続けたあと、「落雷と作物豊穣の因果関係」として、「稲の妻」の科学的な分析を紹介している。


 ところで雷が落ちた場所では、作物の背がひときわ高く伸び、稲穂の発育がよいことはよく知られています。神々が住まう場所を結界し、不浄を浄めるために、今でも水田に落雷すると、青竹を立て、注連縄(しめなわ)を張って祭るならわしが全国的に残っているといいます。何故、落雷が歓迎されるのでしょう。(略)
 アメリカのNASA等幾つかの研究所が協力して雷電研究国際プログラム(TRIP)≠設立し、観測した結果、色々と今まで解らなかったことが解明されました。(略)空気中には空気の体積では約八割を占める窒素(N)と、二割を占める酸素(O)がある。そこへ雷による空中放電で一瞬にして大量の電流が流れ、窒素が酸素と化合して一酸化窒素(NO)となり、さらに二酸化窒素(NO)に変わり、雨水に溶けて硝酸(HNO)になる。それが地中で作物の肥料となって吸収されるということで、落雷と作物の関係は説明できるかと思われます。


 なるほど。そうなんだ。
 それに、「雷」という文字は、「雨」と「田」でできている。まさに、恵みの雨も「いなづま」が連れてきてくれるわけですね。

 で、この短い記事は、このあと「インド・ヨーロッパの父なる天、母なる地の神々」「日本の稲妻の独自性」と続けて、世界共通の天地への畏敬を振り返り、最後では、あらためて「つま」を夫と妻の両方に使えるようにしてはどうかという提案でオチとしている。国際社会で働く女性の、チクリ、日本の男女意識への批判でしょうか。

 もっとも、先にふれたように、もともと「つま」は「夫」で「妻」。古語辞典でも「稲妻」は「稲の夫(つま)の意」と説明してある。きっと、おおらかな万葉の時代など、妻でも夫でも、どっちだってよかったのだ。
 稲「妻」と書くようになったのは明治以降、なんてことはないでしょうね。

 今年のバレンタインデーの京都新聞に、下鴨神社の宮司さんが「ブリ分け神事」という神事について記していた。これは、富山湾を望む射水市にある加茂神社の正月行事で、ここの氏子さんたちは、「鰤越し(ぶりおこし)」といって、「稲妻の閃光の中で獲れたブリが最高のものとしてお供えする」のだそうだ。

 稲だけではないのですね。
 もっとも、こっちは、師走頃の冬の雷鳴が漁のシーズンの到来を告げる、といった季節感が強いようで、稲妻がブリを美味しくしてくれる、というものではなさそう。

 「文明社会」に身を置くと、ゴロゴロと聞こえ始めた途端にあわててパソコンをシャットダウンしにかかるのがならわしになった。コンセントに雷ガード程度では、やっぱりこわい。

 だけど、稲とカミナリさんの親密な関係を、昔の人は体験的に知っていたのだろうと思うと、あらためて、肌身で感じることの大切さを再認識させられるとともに、「いなづま」や「いかづち」といった、ナチュラルな日本語ネーミングのたくみさに、感心させられてしまうのです。
   
ラベル:稲妻 落雷 吉祥
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2010年07月26日

「入会」と、映画『こつなぎ』

旧暦六月十五日 丁丑(ひのとうし)


 もう半月あまり前になるけれど、久しぶりにドキュメンタリーを観た。
 映画は嫌いじゃないものの、どうしても二〜三時間座っていないといけないので、観たい、と思っても、つい行きそびれてしまうことが多い。
 今回、京都では一回限りの上映。おそらく次はない!
 で、夜6時過ぎから、ということもあって、えいやっ、と出かけていった。

 ちょうど、その日まで『アバター』の延長上映があったのだけれど、昼の真ん中の時間帯で一回上映の最終回。仕事上は観たかったけれど、こちらはとうとうあきらめた。またやる可能性もある…。

 『こつなぎ』というタイトルのドキュメンタリー。
 「小繋事件」という呼称は、なんとなく耳にした印象がありながら、ちゃんと理解していなかった。
 少し前に、京都新聞で紹介、予告された記事を見ていなかったら、おそらく観ることはなかっただろう。

 時代としては、はるか昔の大正時代、ほとんど百年近く前に起きた「入会権」をめぐる事件の記録である。
 「入会(いりあい)」といっても、今は、死語に近いほど、知られていない言葉かもしれない。

 もともと、地球は誰のものでもない。
 山も川も海も空も、誰のものでもなかった。
 つまり、みんなのものだった。
 もともと、そこに暮らしている人たちが、経験に基づく知恵をもって、採りすぎず、捕りすぎず、今ふうに言えばサスティナブル、「持続可能な」利用によって共有していた。たとえば、村の背後の山は「入会地」として村人みんなで活用する、そういった「所有権」などない、空気のようなあたりまえの存在としての、ありようだった。

 それが、明治になって、土地に税金をかけるためには、「所有者」をはっきりさせなければならない、ということになった。
 先住民の「インディアン」に、それまで彼らの概念に無かった「所有権」を押しつけてから、「合法的に」土地を奪った、アメリカ開拓時代に近い発想ですね。

 岩手県二戸郡の小繋という地区でも、入会地としての、今でいう「里山」があり、薪を得たり、山菜を採ったり、建材を切り出したりしていた。
 国としては、いちいち村の人たちの了解を得ていては面倒だし、第一、まだ、明治維新からまもない頃、農民などは卑賤の者と相手にされなかった時代である。当時、この山を管理していた(管理、というのもあやしいが)、長楽寺という、村のおそらく唯一の寺、氏寺とでもいうようなところだろうか、その寺の「地蔵別当」というから、兼任住職みたいな坊主だったのか、法律上、その別当名義で「民有地」ということにされた。
 税金は、その後も村人が払っている。おそらく、お上のすることで年貢が増えた、くらいの感覚だったのではないか。その「民有」地券交付が1877年、明治10年とある。

 その後、坊主は金に困ったのか、村人に何のことわりもなく、地券を街の金貸しに売る。さらに十年ほどして金貸しは、貿易商に転売する。これが1907年、明治40年。
 このあたりで、すでに相当あやしくなっているが、その本質が露見するのが1915年、大正4年である。
 その小繋で火事がおき、28戸のうち26戸が消失という壊滅的打撃となる。この火事でおそらく絵図や古文書があったとしても焼失して、村人たちの使用権などの慣習による権利の証明が難しくなった(おそらく残っていてもあまり状況は変わらなかったのではないかとは思えるけれど)。
 で、もともと雨漏りがしていたほどのささやかな家を再建するために、山から材を切り出そうとしたところ、所有権は村人にないとして、警察を介入させた「所有者」が阻止する。

 1918年が「米騒動」のおきた年ですね。
 今では想像がつかないほど、人権などなく、貧富の差も激しかった時代である。

 こうして、1917年、当時としてはおそらく画期的な、入会権をめぐる民事訴訟を提起、裁判が始まる。この第一次訴訟は敗訴し、戦後、第二次訴訟を起こす。
 この間、入会地に勝手に入って無断伐採したなどとして、農民側も訴追されたり、逮捕されたり、という理不尽な弾圧もあり、一度は地裁で入会権が認められ、村民側の勝訴となるが、高裁で再びくつがえされ、最終的には、調停となる。その成立が1975年(昭和50年)。
 こんな愚かな判決は、もう、そう遠くない将来、判例などというもの以前の、前時代の名残をとどめる、社会関係の歴史として語られることになるだろう。まるで封建時代である。

 映画は、この出来事を取材するために、1960年から半世紀近く現地の撮影を続けて亡くなったカメラマン、菊地周さんというかたの残したフィルムを骨格として、写真家の川島浩さん、ノンフィクション作家の篠崎五六さん、といった人たちの取材記録をベースに、中村一夫さんという監督がまとめあげている。
 じつに百年。まさに20世紀がどんな時代だったのかをたどる記録である。

 ごくまれに、たまたま気がついたものしか観る機会がないが、日本の山村ドキュメントは良質なものが多くつくられてきていると思う。
 かつての新潟県朝日村の記録『越後奥三面 山に生かされた日々』も、小繋のような、権力との苛烈な闘争がからむものとは異なるけれど、淡々と、人々の暮らしを描いて、すぐれた貴重な記録だった。
 『こつなぎ』も、本質は、人々の生活がどのようにあったか、そのことについての、ある種無機質と言っていいくらいの客観的な記録だと思う。たまたま、そこに「所有権」という、自然や生活の根源に異質な存在が侵入してきたことで、かえって本来の人の暮らしかた、生きかたが、浮かび上がることになったのかもしれない。

 うーん。
 『ザ・コーブ』なんか目じゃないね。
 観てはいないけれど、ユーチューブで見る予告編だけで充分でしょう。
 ルイ・シホヨスさんも、遠いアジアの共同体の伝承にちょっかいを出しているより、ご先祖のギリシアの文化を心配したほうがいいだろう。

 「入会」のような概念は、契約社会の欧米人には理解し難いかもしれない。
 コモンズ Commons (共有財産)などと訳すらしいが、違和感がある。
 「入会」は、本来、財産でもなければ、共有権でもない。 いわば自然のままのいとなみである。いまや、月や宇宙にまで所有を認めようという、近代強欲国家の法制度には、あてはめにくいでしょうねえ。

 上映のあと、上記の記事でも映画の紹介にコメントを寄せていた、総合地球科学研究所の阿部健一教授が短い話をした。
 「コモンズ」から受ける利益を、近年「生態系サービス」と呼ぶのだそうだ。
 そこから生まれる価値、といっていいのだろうか、「関係価値」という概念が、今認識されつつあるそうだ。

 なぜ、ふつうに「自然の恩恵」、といわないのでしょうね。
 学問自体が、西欧的なのか、アングロサクソン発想なのか、なんだかぎくしゃくしているなあ。
 アジアは、みずからの価値観について、もっと自信をもっていいと思う。

 小繋は、かつての東北本線でしょうね、今、「いわて銀河鉄道」と呼ばれるローカル線の沿線にある。石川啄木の故郷で知られる渋民の駅から、北へ六つ目が小繋駅。
 岩手県で訪れたことのある、釜石も遠野もいいところだったけれど、このあたりの地図を見ていると、あらためて、ゆっくり各駅停車の旅をしたくなる。
 誰か、ルポの仕事でもつくりません?
   
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2010年07月22日

百貨店から、百佳店へ?

旧暦六月十一日 癸酉(みずのととり)


 もう、明日は大暑。
 何日か前、久しぶりに百貨店に行った。
 遅くなってしまった夏の贈答の手配のため。
 いわゆる、お中元ですね。

 お中元、の「中元」というのは、もともと道教からきている言葉なのだそうだ。
 道教の考え方では、上元、中元、下元、すなわち「歳の元(はじめ)」、「月の元(はじめ)」、「時の元(はじめ)」という「三元」があり、正月元旦を意味したという。これが、やがて、主流宗派の重要な行事と結びつくなどして、上元を正月十五日、天官の誕生日とし、中元は地官で七月十五日、そして、水官の誕生日を十月十五日、と分かれていき、「三元節」となった。この日も、かつては正月七日、七月七日、十月十五日、だったらしい。
 で、上元には仙人になることを祈願し、中元には積悪を解き、下元には先亡七祖の供養を願うことになった。(『月刊しにか』VOL.2/NO.11 特集・道教入門)

 日本では、そのうち中元だけが、盂蘭盆会の行事と結びついて残ったのではないかといわれている。
 そんなわけで、今年これまでの「積悪を解」くために(笑)、大丸百貨店の「ギフト会場」へ行ってきた。

 閉店40分前だったこともあり、会場はがらがら。このところ、毎年行くのが遅いこともあり、かつてのような何十人待ち、といった賑わいをみたことがないので、もう百貨店の贈答も、さびれきっているのか、と思っていたが、ことに6月中は、結構いっぱいだったそうである。
 つまり、早期割引の客寄せ効果は、かなりあったということですね。

 百貨店も、背に腹はかえられないのだろうけれど、他店に先がけて客を呼ぶために、「早期割引」もからませながら、贈答品の手配をどんどん早めている。今や、ゴールデンウイークが明けたら、もう「中元商戦」の案内がきている感じだ。
 正月元旦から開ける量販店や百貨店のような小売業も増えた。金儲けへの焦りと貪欲は、季節感をどんどん無くしていく。

 京都なんかは、もともと、盆暮れの贈答はよその土地より遅いといわれていたと思うのだけれど、そういう各地の「土地柄」も、生き残りのための、我を忘れた商売の前では完全に消えてしまっているのだろう。

 旧暦の七月十五日は、じつは今年でいえば、新暦の8月24日だから、まだずっと先だといえばそれまでなのだけれど、世間ではそれは通じないので(笑)、7月15日を過ぎた発送として、のし紙を「御中元」ではなく「暑中御見舞」としてもらった。
 この「暑中御見舞」も、ずっと前に、農協さんで果物を送ってもらおうとしたとき、そんな熨斗書きにはできない、と、電話でえらそうにことわられたことがある。イレギュラーはダメ、「御中元」しか対応できません! というわけである。7月の終わり頃だったと思う。今どきなら、そんなことは言わないでしょうね。

 どうやら大丸の「ギフト会場」は、その日で縮小になるようで、手続きをしているうちに閉店時間になってきたら、富士通パソコンのダンボール箱をいっぱい積んだ手押し車が、フロアのはしっこに並びはじめた。
 そうか、何十台と並んでいる、この受付用の端末はレンタルなのだ。
 そりゃそうですよね。考えてみれば、盆暮れ以外は必要のない機器。典型的な季節需要です。
 でも、回収にきていた業者さんに訊いたら、そこでも「ずっとしまっておく」のだそうだ。それもたいへんだなあ。なかなか微妙な採算性ですね。

 注文をパソコンで受付処理するようになったのは、早くて便利ではあるけれど、不便もある。
 早く届けられればなるべく早く、なんていう希望は「打ち込めない」のだそうだ。一週間後、以降であれば、日にち指定が可能だという。
 で、注文の中でひとつだけ、直接持参したいものについて、二重包装で自宅送り、を頼んだのだけれど、これだけは、早く着けばありがたいと言ったら、対応してくれていたお姉さんは、なんとかしてあげないといけないと思ったのでしょう。可能かどうか、聞きに行ってくれた。
 しばらく待っていると、上司らしい女性がやってきて、パソコンの入力方法を指示。
 四日後に受け取ることが可能になった。ありがとう。

 で、その上司は、目の前まで来て指示したが、そのとき、客にはなんの挨拶もなかった。 このあたりが、最近の百貨店の劣化ですね。
 直接対応してくれていたお姉さんは、とてもきれいな人で、訊いてみたら派遣さんではなくアルバイトだと言っていたが、じつに感じがよく、同性にキビシイ、うちのかみさんでさえ、素敵な人だというほどだったのが、救いだった。

 百貨店は低迷が続いている。リストラもあり、業界は再編が進んだ。
 だけど、客の需要がちゃんとつかめているのだろうか、という疑問は、ずっと前からあり、未だに消えない。
 まあ、富裕層ではないので(笑)、いまや、せいぜい贈答のときくらいしか百貨店で買い物はしない。それも、同じ品物が、ほかへ行けばずっと安く買えるとわかっていても、贈答に関してだけ、つい百貨店を利用するのは、「包装紙」のブランドを「買う」からだ。

 盆暮れでなくても、贈答、は百貨店の生命線だろう。だけど、そこのところでの対応には、過去にも疑問を持ったことが多い。
 たとえば、就職祝いにネクタイを買って、ギフト用に包装してもらおうとしたら、売場ではできないといわれたし、事務所の移転祝いに、簡単な角樽のお酒を買って、角樽に組み立てた状態で熨斗をかけて、と頼んだら、できない、と断られた。
 いずれも、かなり前なので、今なら、そんな簡単なことくらい対応できるのかもしれないが、各売場でのさまざまな販売をみていると、いささかあやしい。

 ギフト会場やカタログをみていても、十年ならぬ百年一日である。
 商品の種別に分類して、値段をつけているだけ。
 早期割引や、価格、送料の値引きをするしか売り上げは伸ばせないと思っているのだろう。
 贈答をする人の気持ちになっていないのだ。
 たとえば、相手が年輩の人であったら、「高血圧の人に役立つ商品」や「糖尿病の人に安心して贈れる商品」なんていうコーナーがあると便利だろうし、育ち盛りの子どもがいるとか、家族構成に合わせたお薦めの分類があってもいい。
 たしか、贈答で、受け取って嬉しいもの、の上位は、たいてい「商品券」である。無機質にアンケートをとれば、そうなるだろう。
 だけど、みんな、わざわざ「ギフト会場」にやってきて、けっして実用的一辺倒でない贈答品を、自分で選ぼうとするのはなぜか。

 消費は「モノ」から「コト」へ、と言われて久しい。
 百貨店も、「編集力」などと言いだし、みずから、消費への「物語」をつくり出そうと広告も打っている。
 だけど、じつは何もわかっていないのではないのか。
 ここ数年、毎年のように売上げで「前年同月割れ」を続けている背景には、百貨店という業態が、もはや市場に受け入れられなくなってきたことが示されている。
 ただテナントや納入業者まかせで、上前をはねるだけの優越感が染みついていて抜け出せないのかもしれない。

 百貨店というところは、機能していればとても便利なところである。だけど、百「貨」店の便利さとして持続しようとすれば採算がとれなくなるのだろう。
 モノからコトへ、と考えれば、百貨は百事へと移っていかなければならない。百貨店から百事店へ。それが、百価店となるのか、百佳店や百華店、あるいは百香店となるのか。
 かつての華やかな外商も半ば投げ捨て、デパ地下と物産展だけで保たせていても、百「貨」店の将来は望めないのではないかと、遅い三元節に、我が身の積悪を解くのを忘れて、いらない心配をしてしまったのでした。
   
ラベル:三元節 百貨店
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2010年07月12日

どういう国をつくりたい?

旧暦六月一日 癸亥(みずのとい)


 旧暦では今日から六月。
お朔日(ついたち)ですから、新月。昨夜は旧暦五月の晦日、つごもりで、月が隠る闇夜でした。
 民主党さんにとっても、真っ暗闇になりましたね。

 きのうの日曜日、朝イチに投票に行ってしまおうと思っていたら寝過ごして、じゃ、まあ、ゆっくり行こうかとぼちぼちしていたら、大雨になってきて、結局、夜になって権利と義務を果たしてきた。
 投票も規制緩和してくれないものだろうか。
 ついでに買い物や、用事をすませたい、と思う方向が、投票所と正反対。せっかくハガキを持参するのだから、どこの投票所でも一票が投じられるようにしてくれると、全国では国民の膨大な時間が浮いて、生産性に寄与すると思うのだけれど。

 この雨で投票率が下がるな、と思っていたが、投票所はことのほか人が多かった。前回の衆院選あたりから、おそらく経費の見直しだろうけれど、投票所が極端に狭くなったので、そのせいもあるかもしれないが、いつになく投票者の密度が高かった。
 それにしても、あの、狭くなった投票所で、投票箱の立会人の位置から、記入している内容は、意識して見れば、ほぼわかる。電子投票の実験の時もそうだったが、あれはいささか問題である。

 消費税を唐突に取り上げたことが民主党の致命傷になったと、マスコミも、当事者たちも言っていたが、それはちょっと違うという気がする。消費税発言が足を引っ張ったというのは、むしろ、メディアの扱い方によるところが大きいだろう。
 もともと、高速道路の無料化も、こども手当も、あまり支持されてはいない。農家の個別補償もイマイチである。もともと小沢一郎さんによる選挙対策的なイメージが強い。さらに普天間の問題と同じように、消費税→財政再建という論理も、具体的なビジョンなしに、思いつき的なイメージが強い。
 要するに、悪く言えば、政策の根本的評価以前として、プレゼンテーションが幼稚なのである。みんな、そこに不安を抱いていたのではないか。
 それと、支持率に便乗しようとして国会の閉会を急いだこと。
 未熟さが、誠実さになれば救われるのだけれど、結局、自分たちの利益優先、というのが、以前の自民党族議員や官僚と変わらないじゃん、と、有権者は敏感に感じ取って、公務員削減とかムダの排除というものの、言っていることへの、無意識の不信につながった。

 開票速報番組は、テレビ各社の無意味な工夫がほほえましいが、途中で一、二回見れば、もう充分。どうせ朝刊で確定した一覧が出るしね。
 日付が変わった頃だったか、首相の菅さんの敗北記者会見が始まって、これは見てしまった。

 へたくそですね。広報担当がついていないのかな。
 最初に、支持してくれた人も批判してくれた人も含めて、有権者に御礼を、と言ったのはいい考え方ですが、御礼を云々、のあとには「ありがとうございました」、を、お詫びを云々、のあとには「すみませんでした」などの、ちゃんとした言葉が続けられるほうが正解でしょう。
 かつての橋本龍太郎さんみたいにテカテカ顔での敗北会見でないのは救われたものの、テレビカメラはいろんなアングルからのアップでショットを抜くから、髭はちゃんと剃って、鼻毛はきれいに処理して、負けたといっても疲れた顔はみせず、さわやかな誠実さでやったほうがいい。

 まず、財務大臣としての経験からギリシア問題に直面して、日本の財政への危機感を持った、という消費税発言への言い訳から入ったが、これも、民主党という政治母体の未熟さを強調してしまった。
 財務大臣をやっていなければ、政治家として、財政への危機感は持たなかったのか、ということになる。鳩山さんの、普天間問題を勉強してみてよくわかった、という稚拙さに近い。
 菅さんには、少し期待していたのですけれどね。

 記者会見で、最初に質問したのが、ニコニコ動画の記者だったのは、何か時代を象徴する気がした。質問があれば、と始まって、大マスコミが一瞬間をおいているのか、牽制し合っているのか、すぐに質問がとばなかったところに、遠慮なくニコ動さんが手を挙げた。
 「インターネット・ジャーナリスト」は、かつてなら、記者会見の会場に入れてさえもらえなかっただろう。

 記者会見の最後の質問くらいだったか、「民主党はどういう国をつくりたいのか」と訊かれて、菅さんは、「生活第一」というスローガンは変わらない、とか、「国民主権」「政治主導」といったことを繰り返していた。
 まったく、答えになっていない。それは、「どういう国をつくりたいのか」という「ビジョン」ではない。システムの問題である。
 このあたりに、インパクトのなさ、つまり、期待されたほどの魅力のなさが、典型的にあらわれている。

 記者会見の中では、やたらに野党に秋波を送っていた。
 それはしかたないのかもしれない。過半数がとれず、またもや不幸な、ねじれ国会である。
 話し合いで合意しながら、いい方向に進むのなら理想だけれど、さて、雲行きはあやしい。小沢さんが、次の検察審査会で、ふたたび不起訴不当にならなかったら、またよみがえって政局にすることだろう。
 大連立なのか、再編なのか、いずれにしても、日本は、なかなか先へ進めない。

 別に民主党さんの政策を支持しているわけではないが、せっかく政権交代したのだから、ちょっとは気の利いたことをやってみてよ、と、多くの人が期待したはずなのだけれど、ぐずぐずと煮え切らないまま選挙をやって、フタを開けてみれば、思わぬ亡霊のような小泉チルドレンのおばちゃんたちばかりが、やたらに復活していた、というのは、なんだかねえ。
   
ラベル:民主党 菅直人
posted by Office KONDO at 03:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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